第956回 片思い 〜今にして知りて〜

 平成23年 5月19日〜

こんな文章を 読みました。
井上善右衛門さんというお念仏を喜ばれた方の文章です。

私には忘れられない思い出があります。
それは中学3、4年の頃であったかと思います。
秋の日の短い時分、3時に学校が終わってから、運動場で何か遊びか競技に夢中になって
いると何時の間にか夕暮れになる。
それから電車に乗って家に帰ると暗くなって電灯のつく頃になる時がありました。

そうすると電車通りまで母が来て立っているのです。
私は電車を下りて母の顔を見るなり言いました。「何でこんな所に来て佇んでいる。
停留所まで来たって、帰るものは帰るし、帰らないものは帰らない。つまらん事を
しなさんな」こんなことを言うと、それでも母は頷いてやれやれといった顔をして
一緒に家に帰ってゆく。

実際その頃私は思いました。馬鹿なことだ、この寒い夕方にわざわざ出て来て何に
なろう。風邪を引くぐらいが関の山、出て来たとて早く帰るわけでもあるまいしと。
そして母に「これからはきっと来なさんな」と言ったものです。
ところがまた遅くなることがあるとやっぱり来ているのです。
いよいよ愚かだと腹立たしく思いました。


母が亡くなってから50年、ようやくこの頃になってその時の母の心がわかる思いが
します。その私の愚かさが偲ばれるのです。
母は何も行けば早く帰ると思うて来ていたのではない。15、6歳と言う年頃の子が
帰ってこぬ。そう思うとじっとしておれなかったのです。
どうしても、部屋で火鉢にあたっておれなかったのでしょう。
そう思うて母を偲びますと私は頬に涙がつたいます。

これは 「仏心」という 項目の一部です。



また、「生き甲斐―摂取不捨と生甲斐」の項目には

九十歳を過ぎて 窪田空穂という先生がお弟子さんの『歌集』の巻頭に
 送られた一首に

    今にして知りて悲しむ父母が われにしまししその片思い

  という歌なんです。

私も若いころ両親に別れましたが、
しかし少年のときから考えてみますと、親には無理放題なことも致しまして親を
悲しませてまいったことでございますが、やはり今にして思いますことは、私に
気付かないところで私一人のために、思いをそそぎつめていてくれた親の片思いです。

窪田先生は、「今にして」 と、こういわれておるところに、私は一層感激を覚えるので
ございます。
今にして気が付いて何ともいえない思いがすると、私どもは肉親の親をこえて、大いなる
天地の親の摂取不捨のなかに、どれほどの育てをこうむっておるかわかりません。

そのおん育てのなかに、私どもが人間として生まれてきた生甲斐を全うすること一つを、
この私のために朝に夕に心の扉をたたきつづけてきて下さった。そのことを思いますと、
言い表しえない感動を覚えざるを得ないのであります。

源信僧都が申されますように、人間に生まれると言うことはまことに難いことで
ございます。
その人間の生を私ども恵まれたのですから、この生まれてきた意味を全うして、
生甲斐のよろこびをしかと、気づかせていただく身の上にならねばと思うのでございます。

  とあります。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と 朝な夕なにこころの扉をたたき続けていただいている 
親の片思い 阿弥陀さまの片思いに 気づかせていただける。

南無阿弥陀仏が味わえる、そうした一日でありたいものです。

妙念寺電話サービス 次回は 5月26日に新しい内容に変わります。

         


           私も一言(伝言板)