第1368回 自己中心の心

 平成31年 4月18日〜

  無明煩悩しげくして 塵数のごとく遍満す
   愛憎違順することは
   高峰岳山にことならず   「正像末和讃」

仏教の「迷い」

皆さんは、「迷う」という言葉を聞くと、どのようなことをイメージしますか。
私は、「道に迷う」や「今日の昼食は何を食べよう」というような「迷い」が浮かびます。


しかし、仏教で言う「迷い」とはそのようなことを言うのではなく、
「正しく物事を見ることができていない状態」のことを言います。
「正しく」とは「ありのままに」ということです。


 たとえば人を見た場合、多くの場合、「いい人」「悪い人」
「どちらでもない人」の三種類のどれかに当てはめて見ています。
ところが本当は、「いい人」がいるのではなく、「私が『いい人』だと思っている人」 
がいるだけなのです。


あるカレンダーの法語に、

「憎い人」など一人もいない 憎いと思う私がいるだけ  
 という言葉や

「いい人」「悪い人」私の都合でいい悪い

ということばがありました。胸に突き刺さるような言葉です。


 都合の「いい人」「悪い人」

私たちは、自分にとって都合のいい人を「いい人」と言い、愛し貪り求め(貧欲)
自分にとって都合の悪い人を「悪い人」と言い、怒り憎む(瞋恚)、
このように自己中心の心から離れられず、正しく物事を見ることができていない愚かさ(愚痴・無明)に
振り回されて生きているのです。

そのことを親鸞聖人は『正像末和讃』の中で

 無明煩悩しげくして
 塵数のごとく遍満す
 愛憎違順することは
 高峰岳山にことならず

 とお示しくださっています。

 無明煩悩という、すべてのものをありのままに見ることができず。
私を煩わし悩ます心(自己中心の心)がたくさんあって、塵の数ほど満ち満ちている。
そして、私の心に順ずるものは愛し、心に違うものは憎む(愛憎違順)、
そのような心が高い峰や山のように心の中に居座っている、というのです。

自己中心の心から離れられない私たちですが、「人間だから仕方がない」と

開き直るのではなく、それが深い悲しみとなった時、新しい世界が開けてくるのです。
そんな世界を求めて生きていきたいものです。

      いのちの栞 毎日を仏法という鏡に 本願寺出版社 小池秀章師より

          


           私も一言(伝言板)