第1404回 忙しいので

 令和元年 12月26日~

「現代人の多くは、仏教とは自分に関係のないもの、
また生活に関係のないものと考えているのではないでしょうか。

ご法座の案内、法話へのおさそいをして気づいたことがあります。

それは、法話へのおさそいのことわり方が二通りあるということです。
一つは、「忙しいので、また次のときに参らせて頂きます」
というものであり、

二つには、「まだ若いので、もうすこし年をとりましたら
参らせて頂きます」という言葉が返ってくるということは、

多くの人たちは、

「仏教とは、ひまな人が聞くもの、お年寄に必要なもの」と、
無意識のうちに考えておられるということだと思います。
何度おさそいしても、「忙しいので」といわれる人に、
私は時に冗談のように「忙しくても死にますよ」というのです。

 忙しいので勉強ができない
 忙しいので手紙が書けない
 忙しいので掃除ができない
  成程
  それじゃ多分忙しいので 死ねないだろう 〈「日々の糧」より〉

忙しすぎて、死に忘れたという人はただの一人もおりません。
みんな、あれもして、これもして、忙しい忙しいといいながら
一生を終わっていくのであります。
死に直面してはじめて、「自分は何のために汗水をながし、
何のために忙しい思いをしてきたのだろうか」と嘆いても
どうにもならないのです。

「忙」とは「心を亡している」という字です。
「心を亡している」とは、自分を見失っているということ。
忙しい忙しいで、一番大切なはずの自分を見失っていると
いうことが、「忙」ということであります。

 あれをして、これをしてと 仕事に追いかけまわされて、
自分を見失ってしまいやすいお互いだからこそ、たとえわずかの

時間でも、自分の人生を考える場をもちたいものです。

自分の人生を考える、それが「法話」であります。
その場が「法座」であります。
蓮如上人は、このことについて、

 仏法には、世間のひまを閥て、きくべし。世間の隙をあけて
 法をきくべき様に思う事、浅間敷ことなり。仏法には
 明日という事はあるまじき由の仰に候。 (蓮如上人御一代記聞書)


(仏法をきくには、世間の用事をする好い機会に、その用事を
 やめてもきくようにせねばならない。

 世間の用事をしてしまって、それから好い機会をつくって
 仏法をきこうとおもうことはあさましいことである。
 仏法をきくには、明日にのばすことはあるべきではない)

 平均寿命を自分の寿命のように思って、「まだ私の寿命は何年ある」
といっておられる人があります。
平均寿命は決して私の寿命ではありません。

若くても死ぬのです。死んでからではまにあわない大切ことが
私たちにはあるはずです。
それはすべての生ある者にとっての永遠の課題である
「私は、この人生をどう生きたらよいのか」という問題であります。
  
      永田文昌堂刊 人となれ仏となれ 藤田徹文師著


          


           私も一言(伝言板)