第941回 自己満足のためでは ありません  〜利他の方向こそ〜

 平成23年 2月 3日〜

あるブログに 夜の法座の休憩時間 トイレに 行くと 
「寒ぶ。」とか「お先に。」という声に混じって「なんまんだぶ」の声が 聞こえました。

『トイレの仏さま』が いらっしゃるかどうかはわかりませんが、
トイレにも仏さまは いらっしゃいました。・・・・・
と ありました。

さて、前回に続き 高校生からの仏教入門には こんなところが ありました。

還相回向    すべての人を救うために 

なぜ、浄土に往生することを目指すのかと言うと、それは決して自己満足の
ためではありません。
浄土真宗では、浄土に往生して仏のさとりを開いて終わりではなく、
この世に還ってきて、迷っている人々を救うはたらきをするのです。

仏のさとりは、智慧と慈悲の体得、自利利他の完成ですから、
自分が さとって終わりだったら、それは仏のさとりではありません。

親鸞聖人は、浄土に往生することを「往相(往く相)」、浄土からこの世(穢土)に
還ってきて、人々を救うはたらきをすることを「還相(還ってくる相)」、という
言葉で示してくださっています。

そして、私が浄土に往生すること(往相)も、この世に還ってきて
人々を救うはたらきをさせていただくこと(還相)も、
すべて 阿弥陀仏の はたらきによるといわれています。

これを、「回向」という言葉で表し、「往相回向」「還相回向」と言われています。
「回向」とは、阿弥陀仏から私たちに回らし振り向けられたという意味です。

 ただし、浄土からこの世に還ってくるといっても、お化けになって還ってくるのでも、
何か実体的なものが 還ってくるのでもありません。

阿弥陀仏の はたらきと一つになって、還ってくるのです。

これは、一般論としてではなく、念仏を称えるところに開けてくる世界なのです。

 また、いのち終わった後に、衆生救済のために浄土から還ってくるということは、
未来のことのみを言っているのではありません。
自己中心の心から離れられない今の私には、本当の意味で他人のために何かを
するということはできません。その悲しみを知らされるとともに、そんな私の
生きる方向を明らかにしてくれているのです。

補講−さらに深く学びたい人ヘー

〈還相回向の受け取り(二つの側面)〉

@ 今の私が還相のはたらきに 支えられ生かされている
 還相回向の教えを聞いて、「だったら早く死んでもかまわない」と思う人が
 いたとしたら、それは間違った受け取りです。
 この私が還相のはたらきに支えられ生かされているとわかったら、
 早く死んでもいいとはならないはずです。

A 私の生きる方向が定まる
 どこに向かって生きるべきか。それは、浄土(さとりの世界)。
  そして、そこでさとり、さとって終わりではなく、すべての人々を救うはたらきをする。
  つまり、自己の欲望を満たす方向ではなく、人のために生きるという
  利他の方向こそ、目指すべき真実の生き方だということを示しているのです。

 ・・・・・・・・・とあります。

南無阿弥陀仏 は 自己の欲望を満たす方向ではなく、人のために生きるという
利他の方向こそ、目指すべき真実の生き方だということを示しているのです。

妙念寺電話サービス次回は 2月10日に 新しい内容に変わります。


         


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