第1340回 法を聞く

 平成30年 10月4日〜

 私たちは、なかなか自分では、自分の姿に気がつきません。
人か
ら指摘されるまで、自分の姿を知ることができないことが多いようです。
そして、人の欠点ばかりが目につき、人の悪口ばかりいって、

お互いに傷つけあっているのではないでしょうか。

このような、自
分を振り返ることのない、自己中心のこころを「煩悩」といい、
れが私の迷いや、悩みの原因となっているのです。

しかし、自分のみにくい姿は、とても見えるものではありません。
それどころか、迷っていることさえ気づかないのです。
自分の欠点
だらけの姿を見るということは、不愉快なことですし、
たとえ親し
い人から指摘されたとしても、受け入れにくいものです。
仏法も同
じことで、なかなか耳に入ってきません。

 お寺の法要や聞法会などで、せっかく法話を聞き、ご縁にあわせ
いただいているのにもかかわらず、素直に仏さまの教えを受け入
れられないのは、
やはりひとりよがりの心が邪魔をしているからで
す。
仏法を、他人ごととしてしか受けとめようとしないのは、その
心のせいです。

 浄土真宗は、法(みのり)を聞くということを、なによりも大切なことだと教えます。
法を聞くことによって、私たちは自らのはず
かしい姿を知らされると同時に、
このような私に慈愛をそそぎ、救
わずにはおられないと願い続けておられる、
阿弥陀如来の存在を知
らされるからです。

 私の、かたくなで、みにくい心をくずして、素直に仏さまの言葉が耳に入るように
なるには、何度も何度もくりかえし、教えを聞い
てゆかなければなりません。
一生涯が聞法です。


 そうして、この煩悩だらけの私も、阿弥陀如来の大きな慈悲の中に、
いだかれていると気づかせていただくとき、素直に、「南無阿
弥陀仏」と
称えさせていただけるようになります。


 忙しい日常生活の中で、なかなか仏法を聞く機会を見いだしにくいかも
知れませんが、つとめてみ教えに触れ、わが姿を反省してい
きたいものです。

 では最後に、ご一緒にお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏……。

                                  朗読法話集 第一集より

          


           私も一言(伝言板)