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コロナが、また流行しはじめたようですが、
今年も秋の法要をお勤めしました。
さすがに、お斎は中止しましたが、変わって、
お店から求めたおこわの弁当を、おみやげに
持ち帰っていただきました。
法要では、お勤めの後、こんな挨拶を
いたしました。
本日は 命知らずのみなさま ようこそ
お参りいただきました。
世間では、コロナが怖いので、皆で集まる
なんて、とんでもないと
多いようですが、みなさまは 怖さ知らずの方々、
万全のコロナ対策を取って、こうして集まって
いただき、
きっと、先だたれた皆様のご両親や、
おじいちゃんおばあちゃん、お連れ合いや、
お子様、ご兄弟、お浄土に生まれ、仏に
なられた方々が、
「よく来てくださいました、ありがとう、
ありがとう」と、そろって喜び、
お礼をいって、おいでのことと思います。
何で、そんなに喜んで、いただけるのか、
お子様がおいでの方は、
みてください。今、気がかりで、一番
心配なことは何でしょうか。
心配なのは、子供や孫のこと、それも
一緒に生活している子供よりも
離れている子供のことではない
でしょうか。
先ほど 車で、さだまさしの「案山子」
という歌を聴いておりましたら、
「元気でいるか 都会になれたか、友達
出来たか、さびしかないか、
・・・」と 遠くに住む、我が子のことを
思う親ごころの
生きている親だけではなく、亡くなられた
方々も、生きている
変わりなく、今も心配していただいている
のだと思います。
こうして本堂に、お参りしていただいた
ことを、喜んでおられるのは この
お念仏の教えにさえ、南無阿弥陀仏にさえ
出会ってくれれば、
ことがあっても、堂々と生きていける。
たとえ病気になろうと、歳を取ろうと、
いのちが終わろうと、
いい、悲しまず、堂々と生きていける。
南無阿弥陀仏の価値観さえ知ってくれれば、
分かってくれればそれで大丈夫、
その、お念仏の教えを、「よく、聞きに
きてくれた ありがとう
喜んでいただいていると思います。
ですから、今日は、お念仏の教えとは
なにか、なんで、そんなに
喜んでいただくのか、じっくりと
聴いていただきたいと、思います。
阿弥陀さまの願いを、先立たれた方々の
願いを 是非、聞き取っていただきたいと
思います。・・・・
秋の法要で、こんな挨拶をいたしました。
そして、多くのみなさま、ご参拝ありがとう
ございました。
インターネットの世界も、めざましい
進歩で、文章や写真だけではなく、
動く映像と、耳で聞くものへと大きく
変わってきたようです。
その一つユーチューブを見ていますと、
過去の映像も沢山アップされており、
浄土真宗のご法話も数多く聞くことが
できます。
今から550年ほど前の蓮如上人の
時代に、お念仏の教えは全国へ広がって
いったということを、多くの先輩方の
ご法話では強調されています。
それは、正信偈やご和讚を、声に出し
読むことに加えて、御文章という目で
見て、耳で聞く、短い朗読のご法話が、
教えが広がる大きな要因であろうと、
のお話です。
本願寺派では蓮如上人500回遠忌に
あわせ、それまでカタカナ書きだった
御文章を
「御文章の大意」(現代語訳)が
刊行されました。
私どものホームページには、その内容を
全文アップしておりますが、これを耳でも
聞けるようにと、御文章とその大意を、
読み上げソフトで読み上げ、ユーチューブ
にアップし始めました。
「御文章、現代語訳、仏教を日本語で」
などの単語で検索していただくと、
見て聞いていただけます。
これまでの伝統的な拝読形式ではなく、
機械的な読み方ですが、眼で字を
追いながら、繰り返し聞いていますと、
とてもありがたく聞こえてくるものです。
そのご文章の中の一つ、「一切の聖教章」
毎月 24日に拝読の
をご紹介します。
浄土真宗の信心というのは、南無阿弥陀仏の
六字のいわれを聞き開くことです。
すれば、
なるということです。
ですから、南無という二字は帰命であって、
衆生が
におまかせすると
その衆生を阿弥陀仏がみなもらさず
お救いになるということです。
このように、南無とおまかせする衆生を
阿弥陀仏が
から、南無阿弥陀仏の
衆生が平等に救われるいわれで
いうことがわかります。
そこで、他力の信心を得るということも、
南無阿弥陀仏の六字のいわれを心得ると
いうことであり、一切の聖教も、ただ
南無
もので
(五帖第九通)
すこし時間が出来た時には、どうか、
スマホや、タブレット、コンピュータ
などで、御文章を見ながら聞いていたくと、
法座のご縁に遇ったときのように、
とても有り難く、すがすがしい気持ちになり、
生かされている実感が味わえるものです。
(尚、ユーチューブでは、仏教を日本語で、
ひらがな版の映像、ご文章①聖人一流章
②出家発心章と 番号を打っております。)
https://www.youtube.com/watch?v=-q6gXg-R7Xs へのリンク
第1449回 歯医者さんの言葉
令和 2年11月5日~
コロナの影響は予想外のところにも及び、
かかりつけの歯医者さんが、高齢のためも
あり、おやめになりました。
新たな病院を探し始めると、歯医者さんの
看板が次々に眼に入り、その多さに、
日頃見落としていたことに、驚きました。
80歳で20本、自分の歯を残した方が
よいのだとの思いが強く、ぐらぐら揺れる
歯までも、接着剤で丈夫な歯にくっ付けて
もらい、
新しい歯医者さん行き、見てもらうと、
「これは抜いた方が良い、根元が腫れて
おり健康にも良くない、周りの歯が
丈夫だから、かぶせた方が良いですね」
と、言われました。
「入れ歯だけは嫌、そうでなければ
お任せします」と、言ったものの
金属を被せるイメージしかなく、
暗い気持ちになりました。
それを察してか、「前の方の歯
ですから治療中は、仮歯をつくります
心配要りません」とのこと、
麻酔をして丈夫な歯を削り、
悪い歯を、抜きました。
削られた丈夫な歯を舌で触ると、
細いピラミットのように三角に尖った
歯が3本、そこに粘土のような
もので型をとり、10分ほどで
自分の歯以上に立派な真っ白な
仮歯が出来上がり、外見は、
治療中とは思えない出来映えです。
「仮歯」、「被せる」、抱いて
いたイメージとは全く違っており、
いかに専門用語が、一般の人の
理解と大きく食い違っている
かを知りました。
治療の内容を一つ一つ丁寧に
説明していただき、有り難いの
ですが、初めて治療を受ける者には、
専門家の言葉は正確に伝わって
おらず、大きな違いがあるもの
だなあと気づきました。
ところで、毎日毎日、僧侶として、
お参りしお勤めして、お話しも
ちゃんとして、自分はまともな
住職だと思い込んでいましたが、
聞く方は、まるで違った受け取りを
されていたのだろうと、感じました。
「なんでお勤めをするのか」
「誰のためのお経か」
「何を目的として仏事を行うのか」
毎日の繰り返しで、こちらは
当たり前でも、ご門徒の方の思い、
イメージと大きく異なっている
のだろう、専門用語をできるだけ
使わずに、説明して行く必要が
あると、つくづく感じています。
そして、歯医者さんは、患者が
不自由なく痛みなく、日常生活が
快適におくれるようにと熱心に
治療されているように、僧侶もまた、
老病死をはじめとした多くの苦しみ
悩みを、乗り越えていける手立て、
向かうべき道を伝えて行く、大事な
役目を果たしているのだと、改めて
味わっています。
毎回、毎回、相手の方は、初めてのこと、
ご門徒が正確に理解出来るよう、
味わえるように、相手の立場に
よりそった言葉を使っていくことが
大事だと痛感しています。
第1448回 大悲還相
令和2年 10月29日~
浄土に往生するということは、
直ちに大慈大悲を完成して、業苦に沈む
すべての者を思いのままに救っていく
大悲還相の菩薩となることである。
これほど有り難いことはないと
いうのが親鸞聖人の往生を歓喜される
内容だったのです.
お浄土へ行ったら何をするんだと
言われたら、生きとし生けるすべての
者の「いのち」を、わが「いのち」
として生き続ける、そして救い続ける.
悲しむ人がおれば そこに私がいる、
悩む人がおればそこに私が寄り添っている、
いつでもどこでも、私のいない時も、
処もなくなる、それが浄土に往生する
ということの意味であるといわれるのです。
それが浄土に往生することの意味で
あるならば、私の本格的なはたらきは
これからである。
この世にいる限りは、固い自我の殼に
隔てられて溶け合うこともできず、
どうしてやることもできなかったが、
今度お浄土へ行ったら確実に救ってやる。
たとえあなたがどこにおろうと、
どんな状況にあろうと、今度は確実に
私は救ってやる。そういうことを
言わせていただける身にしていただいた
ことを聖人は歓喜していらっしゃった
わけです。
私どもはみな幸せを求めている
といいます。しかし誰の幸せかといえば、
ほとんどの人は
そして自分が幸せになるためには、
時と場合によっては、不幸せは人に
押
確保したいと願っています。
そうすると、幸せになりたい
多ければ多いほど不幸せを押しつけられる
率が高くなるわけですから、結局はみんなが
幸せを求めているということは、みんな
不幸せへの道を歩んでいることになる
でしょう。
幸せになりたいと思って不幸せへの道を
歩んでいる。
これを仏陀は「顚倒」(てんどう)の
妄想といわれたのでした。
ひっくり返ったものの考え方をしている
というのです。
では真っ当な生き方とは何ですかと
尋ねたならば、仏陀は、即座に
「不幸せは私が引き受
だからあなた方は幸せになってください」
と願うことだと言い叨られるはずです。
その言葉に従って、そのような生き方を
菩薩というのです。
残念ながら私は「こうい
真実であると聞かせていただきました。
そしてそう信じています。」とまでは
言えますが、そういう生き方を今私は
していますとはとても言えません。
それが凡夫であることの悲しさであり、
申し訳なさです。
しかし私もそれを堂々と言い切ることが
できる時がきます。
それが浄土に生まれた時です
しかし今は「それが真実なんですよ」、
「それが仏の大悲心を学ぶ」という
ことなんですよ、
言い続けたいと思います。
梯實圓著 親鸞聖人の信心と念仏
自照社出版刊
第1447回 すべては如来のお育て
令和2年 10月22日~
他力の世界から申しますと、
自力というのは、如来さまのお恵みを
自分の功績のように横取りしている
過ちを犯していることになります。
それは「南無阿弥陀仏」とは、
如来さまが私に「われよく汝を護らん」
と
(本願招喚の勅命)であるのに、
それを聞こう
「私を助けてください、阿弥陀さま」
と自分が叫んでいる
しまっていますから、如来の救いの
声が全く聞こえないのです。
そのような過ちを繰り返している私を、
如来は見捨てたまうことなく
導き、念仏は如来が私をお喚び
くださっているみ言葉であった
と受け容れるところまで、久遠劫来、
育て続けてこられたのです。
親鸞聖人はそのことを「たまたま
行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」と
仰せられたのでした。
「お念仏は称えているけれども、
お浄土ヘ行けるかどうかが
わかりません」というような言葉は、
実は浄土真宗を聴いたこと
人の言葉です。
そういう受け取り方が、そもそも
本願の念仏を誤解しているのです。
それは「お念仏を称えるのは
私の仕事であるが、お浄土へ連れて
行く
理解しているからです。
けれども阿弥陀如来さまの本願力は、
そうではなくて、念仏する
ない者を育ててお念仏をする者に
育て上げ、如来・浄土を真実と
仰ぐ人間に転換し、変革して
お浄土へ連れていってくだざるのです。
言い換えれば私を念仏する者に
育て上げた力が、私を浄土へ連れて
いってくださる力なのですから、
念仏しているが、これで救われるか
どうかわからないというような話とは
全く違っています。
一つの本願力が、私を念仏者に
仕上げ、お浄土に向かった入間に
変革して浄土へと迎え取って
くださるのです。
ですから一声でも、お念仏が
現れてくださるならば、すでに
如来さまの
してくださっていると受け取り、
「お助けくださって有難うございます」
とお札を申し上げるべきです。
如来さまが私をお育てくださる
ご縁は、その人その人に応じて
さまざまです。
さまざまな方法をめぐらせて、
お育てくださっています。
みなさんも、「ああ、あれが
ご縁だったな、これがご縁なの
だなあ」と、
思い当たることがあろうと思います。
その仏縁には順縁もあれば逆縁も
あります。
順逆さまざまな人生の
ご縁としてお育てくださるわけです。
その意味で、どのような出来事の
なかにも如来さまのお導きの手が
伸びています。
親鸞聖人が「この如来、微塵世界に
みちみちてまします」と言われたのは、
そのことを仰せられたのに違いありません。
梯實圓著 親鸞聖人の信心と念仏
自照社出版刊
第1446回 信心の行者
令和2年 10月15日~
私どもを、本願のみ言葉を疑いなく
受け入れる者に育て、仏のみ名を称える
念仏の衆生に育て上げて、浄土に迎え
取ろうと誓願され、そのとおり現に
はたらいておられる如来さまであると
受け取っていかれたのが親鸞聖人でした。
わけてもそこには、「若不生者、不取正覚」、
もし生まれずは、正覚をとらじと
誓われているます。
十方の衆生、生きとし生けるすべての
者に向かって如来さまは、もし、あなた方を、
本願を信じ念仏する者に育て上げて、
私の国(仏陀の領域・浄土)に生まれ
させることができないようならば、
私は正覚を取りませんと、ご自身の正覚、
言い換えれば仏陀としてのいのちをかけて
救いの成就を誓われている。
これが阿弥陀如来さまの根本の願い、
本願というのです。
この願いが完成し、願ったとおりに
人びとをお念仏申す者に育て上げて、
そして浄土へ迎え取り、さとりを
開かせる力(本願力)が完成したとき、
法蔵菩薩は阿弥陀仏となられたのでした。
第十八願において願ったとおりに
人びとを救済するはたらき、力が
完成していることを本願力というの
ですから、阿弥陀仏とは、本願の
とおりに一切の衆生を救いつつある
本願力の活動を表すみ名だったのです。
そして、『大無量寿経』はそのことを
説いていますから、本願の始終(因と果)
をもって阿弥陀仏の名号にこめられている
救いのいわれを説き表したお経と
言われるのです。
そのことを親鸞聖人は、「如来の本願を
説きて経の宗致とす、すなはち
仏の名号をもって経の体とするなり。
(註釈版135頁)と言い
本願をもって名号のいわれを説き
明かされた経ですから、この経の法義は
南無阿弥陀仏という名号に収まると
言われたのです。
また、名号を聞くということは、
阿弥陀仏の本願のおこころを聞いて、
私をお救いくださる阿弥陀如来さまの
ましますことを信知して喜ぶ
意味していました。
親鸞聖人が本願成就文の「その名号を
聞いて信心歓喜せん」と言われた
お言葉を解釈して。
「聞」といふは、衆生、仏願の
生起本末を聞きて疑心あることなし、
これを聞といふなり。(註釈版251頁)
と言われていますが、それはその心を
表されたものです。
ですから、南無阿弥陀仏という
言葉を聞いたら、「私は如来の
お救いのめあてであったんだなあ」
「私は今まで気がつかなかったけれども、
阿弥陀如来さまの大きな救いのはたらきが
私の上にはたらきつづけていてくだ
さったんだな」「そのことをかたくなな
私に気づかせるために、南無阿弥陀仏と
名告りつづけ、喚びつづけていてくだ
さったんだな」と思い知らされるのでした。
そのことを知らせるために、親鸞聖人は
「本願の名号」「誓願の尊号」、あるいは
「誓いのみ名」というようなお言葉を
使われたわけです。
そして、この誓いを聞いて感動し、
仰せを疑いなく聞き受けて、如来に
すべてをおまかせしていく人を。
信心の行者というのです。
親鸞聖人の信心と念仏 梯實圓師
自照社出版
第1445回 磁石のたとえ
令和2年 10月 8日~
親鸞聖人は「他力」ということを
教行信証の「行文類」で明かにされます。
もし他力が ただ如来さまのはたらき
であるというのならば、如来の徳を
明かされる「真仏土文類」で明かされ
たらよいと思うのですが、それを
浄土の真実の行である念仏を明かす
ところで示されているということは、
念仏となって私の上で躍動している
如来の「利益他功徳力」、すなわち
如来の「利他力」を明らかにした
かったからです。
「行文類」ではいろいろな讐えで
本願力を表されていますが、その中に
「磁石のたとえ」があります。
子供のころ買ってもらって遊んだ
おもちゃの馬蹄形の磁石で、いろいろな
ものをひっつけたり、砂鉄を集めたり
して楽しんだものです。
釘というのは自分で動かないものでしょう。
釘が自分で動いたら、ややこしくて
かないません。
あの天井のあたりに打ち込んである釘が、
「俺はこんなところにいるのはいやだ」と
いって、勝手によそへ行ったら、たいへんな
ことです。家がつぶれてしまう。外から
力を加えないかぎり、釘は勝手に動かない。
ところが、この動かないはずの鉄釘が、
自発的に動くときがある。
磁石を近づけると、この釘が磁石の方へ
すっと動いてくる。
鉄釘は、磁石の磁場の中へ入りますと、
動かないはずの釘が動くでしょう。
そのとき、「釘が動いた」といいますね。
あれは、釘が動いたというのか、釘は
磁石によって動かされたというのか。
しかし、磁石によって動かされたに
違いないけれども、釘が動いたことも
事実です。
どちらに動くかというと、確実に磁石の
方向に動いていきます。つまり、運動に
ひとつの方向性があります。
方向性があるということは、釘の中に
一種の秩序が形成されているという
ことになります。
親鸞聖人は、
なほ磁石のごとし、
本願の因を吸ふがゆゑに
(『教行証文類』「行文類」、
『註釈版聖典』二〇一頁)
といわれています。
「阿弥陀さまの本願力というのは、
磁石のようなものだ。本願の救済の
お目当てである私たち凡夫を吸いつける
はたらきを持っている。それは、
ちょうど磁石が鉄釘を吸いつけるように、
仏さまの本願力は私たちを仏さまの
方向に吸いつけていく」というのです。
あるいは「第十八願に誓われたとおりに
阿弥陀如来さまは、衆生に本願を信じ
念仏するという往生の因を与えて、
阿弥陀仏の方へ吸いつけてくださる。
それはまるで磁石が鉄を吸いつける
ようである」といわれたものとも
うかがわれます。
動かないはずのものが動いているのだから、
これは不思議といわねばなりません。
しかも不思議は、それだけで終わらない
でしょう。磁石にひっついた釘のところへ
別の釘を近づけますと、そこへまた別の
釘がひっつきます。ということは、
じつは磁石にひっついた釘は、磁石に
なっているのです。
これは不思議だ。しかし、これを磁場
からはずしますと、もとの鉄釘に還って
いきます。完全に磁石になりきって
いない証拠です。
親鸞聖人は、如来に背反したものの
考え方しかできなかった凡夫が、如来の
本願力によって念仏の衆生にならしめ
られると、仏法を真実と受け容れる
者になり、仏法を聞くことを楽しむ
ような者に変わってくることの不思議を、
ちょうど磁石化した鉄釘のような
現象とご覧になったのでしょう。
それは信心の行者が如来のお心に
かなった者に転換しているような
現象だったからです。
ただ、鉄釘は磁場にあるときだけは
磁石になるけれども、永久磁石には
なりきっていない。だから、磁場から
離れますと、ただの鉄釘になって
しまうという現象はよく知っていたと
思います。
親鸞聖人の信心と念仏
梯實圓師 自照社出版
その一部分です。
お釈迦さまが お説きいただいたお経は、
私が頂いた お手紙という意味です。
この私の為に、私の名前で届けられた
手紙です。
宛て名が 自分の手紙なのに、
読みもせずにそのまま、お仏壇に
供えているだけの人は いないはずです。
ちゃんと読みます。
字が読めない人は、字が読める人に
見てもらうもの、読んでもらうもの、
これが、お経の意味なんです。
禅宗などでは 特定のお経は
決まっていませんが、どの宗派の
お経でも 死んだ人には 一つも
関係ないもの、生きている人間、
生きている この私にしか 関係ない
ものです。
蓮如上人が お書きいただいた
「 ご文章 」も、お経と同じく
私に 頂いた手紙 ですから、
それぞれの家に置いてあるのです。
ご文章は 「 教行信証 」を
くだいて書かれたもの。
教行信証は「 浄土三部経 」を
くだいてお書きいただいたもの、
だから、ご文章は お経と見て
間違いないのです。
そのご文章の内容は「 平生業成
(へいぜいごうじょう)」一つに
全部が収まります。
平生業成が、浄土真宗の根本なのです。
平生業成ということを 知らないので、
仏教は 死んでから
思って、 歳とってから お寺は
参るものだ
思い込んでいます。
後生の一大事ということ、今ここの
問題を 解決しなければ
そこで 平生業成なんです。
世界の宗教で 親鸞聖人しか
この問題を 説いておられない。
親鸞聖人は 帰命尽十方無碍光如来を
よく使っておられる。
これは、お前が 居るところは、
どこに居ても 先に来て下さっている
ということなんです。
私は、逃げ場所も 隠れ場所も
ないということです。
私が どこに居ても、如来は
私が居るところには、いつでも
先に来て下さって居る。
子供たちが、よくグッドバイと
いいますが、その意味は、
神様は いつも あなたと一緒です。
という意味だそうです。
私たちには、阿弥陀さまが
いつも一緒にいていただく、
南無阿弥陀仏は グッドバイと
同じように、阿弥陀さまは
いつも私と一緒です。
これから、さよならを言うときは、
阿弥陀如来は いつも一緒
意味で、南無阿弥陀仏 と言いたい
ものです。
( 後生とは 後に来るべき生涯。
一大事とは 最も重要なこと。
転迷開悟 生死の問題を 解決する
人生における 最重要事項 )
( 平生業成、臨終来迎で往生が
決定するのではなく、平生に
往生が決定する)
そのような私が 念仏を申すように
なったのは、できることをしている
のではなくて、できないはずのこと
ができているのだといわれるのです。
できないはずのことができている
というのは、じつは私のはからいで
念仏しているのではなくて、
阿弥陀如来さまの本願力が、私を
揺り動かして、
上げてくださったのであって、
念仏は如来さまの本願力が
私の上に救いの花を開かせて
おられる姿なのであるというのが
親鸞聖人の念仏の味わいだったのです。
聖人が「たまたま行信を獲ば、
遠く宿縁を慶べ」と仰せられたのは
その心を述べられたものです。
第二に、南無阿弥陀仏は
「助けてください、阿弥陀さま」
と救いを
一般にはいわれますが、
親鸞聖人は、
阿弥陀さまが「かならず助ける。
私にまかせなさい」と
くださる本願招喚の勅命であると
いわれていました。
だからこの如来さまの仰せを疑い
なく受け容れて、本願力を
すがたを信心といい、その信心を
賜ったときに往生は決定する。
だから念仏しているすがたは、
「お助けくださって有難うござ
います」と
いるのであるといわれるのです。
ですから自分が思いはからって
判断し、決断し、行動を起こす
というような
本願を信ずる気もなく、念仏する
気も起こらない私を
本願を信じ、念仏する者に育て
上げて救おうとはたらいているのが
本願力であって、その本願力に
よって、私どもを本願を信じ念仏
する者に
信心も念仏も如来の本願力の
たまものであって、
まったくないと仰せられるのでした。
そのような本願力のはたらきを
聖人は他力とも他力回向とも仰せ
られたのです。
それはまったく人間のはからいを
超えた、如来さまの智慧と慈悲の
おはからいのたまものですから
聖人は「他力不思議」といわれた
のです。
もう一度申しますと、ここに
私が念仏を申しているという
一つの事実がある。
この念仏は、私の行いだといえば、
たしかに私の行いです。
表面だけを取れば、私が判断し、
私が行動しているのに違いない
からです。
だから、この念仏は私の行いで
あると受け取る、これは普通の
考え方です。
しかし、このような普通の考え方を、
親鸞聖人は思議の世界だと
おっしゃるのです。
如来さまのおはからいを覆い
隠しているから、その人には
人間しか見えていない、
人間の料簡を中心にして物事を
考えているとおっしゃるのです。
梯實圓師 親鸞聖人の信心と念仏
自照社刊
第1442回 親鸞聖人の御恩
令和2年 9月17日~
宗祖親鸞聖人のご恩とは、いったい
どのようなものでしょうか?
インドに始まる仏法を、日本まで伝えて
くださった方々には、皆ご恩
中でもその方にしかなし得なかったことに
対して、「ご恩」
さまざまに感謝の法要が勤められて
いるようです。
仏法が伝わりはじめた頃の日本には、
戒律を授ける戒師がいなかった
授かった正式な僧侶がいませんでした。
その戒師の一人である鑑真和上は、日本からの
要請を受けて、命がけで海を渡り、失明と
事態になりながら、日本に正式な僧侶を
誕生させてくださいました。
ここに鑑真和上のご恩があります。
また、親鸞聖人の師匠である法然聖人は、
当時難しい修行ができる「善
阿弥陀さまの極楽浄土に生まれることが
できないと言われて
「悪人」でも「本願を信じ念仏すれば、
皆極楽に生まれて仏
念仏往生の道を教えてくださいました。
では、親鸞聖人が私たちに教えて
くださつたのは何なのでしょうか?
それは、法然聖人の教えてくださった
お念仏が、阿弥陀さまのお喚び
ということです。
そこに、親鸞聖人のご恩があります。
南無阿
思われていた時代に、そうではなく、
仏さまからの喚び声であるということを、
明らかにしてくださいました。
このことを親鸞聖人はご著書『教行信証
(顕浄土真実教行証文類)』
本願招喚の勅命なり
と味わわれています。
お釈迦さまをお手本とし、目標とし、
修行をしてさとりを開くものだ
いる人たちに、「お釈迦さまは、お浄土から
来た仏さまである。
仏法は全て阿弥陀さまの本願のはたらき
であり、他力である。
私の修行
余地は一切ない」と、私たちが仏のさと
開くことができない原因を、煩悩ではなく
自力心であるとお示しく
それまで人々は、お釈迦さまを自分と
同等に考え、お釈迦さまにでき
自分も修行すれば仏になれると歩んできました。
しかし親
私たちを救おうという阿弥陀さまの
おはた
くださり、ご苦労の末に仏となって、
阿弥陀さまのお救いを私たちに伝えて
くださった、お浄土から来たお方であると
教えてくださったのです。
だから、お釈迦さまと同等の修行な
私たちにはできるはずもなかったのです。
聖人は次のように語られます。
久遠実成阿弥陀仏
五濁の凡愚をあはれみて
釈迦牟尼仏としめしてぞ
迦耶城には応現する
(『浄土和讃』『註釈版聖典』五七二頁)
如来世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の
本願海を説かんとなり(『教行信証』『註釈版聖典』二〇三頁)
お釈迦さまをお手本として修行して
いる人たちは、私の煩悩こそが迷いの
原因であると、煩悩を断ち切るため、
夫婦、親子の縁を絶ち、山に
修行します。
親鸞聖人の比叡山での二十年のご修行も
それでし
仏法は全て阿弥陀さまのご本願のは
たらき、他力であると知らされた親鸞聖人は、
自力でさとりを開く道を
弟子となり、他力のお念仏の道を歩まれました。
そし
生涯をともにされました。
私たちは、阿弥陀さまの、全てのものを
仏にするという、仏さまのは
中にいます。
そのことを告げてくださっているのが、
南無阿弥
南無阿弥陀仏は、「お前を仏にする阿弥陀は、
すでには
なろうとすることはやめ、我にまかせよ」
という、阿弥陀さまのお喚び声であったのです。
このことに出遇った親鸞聖人は、長い問、
阿弥陀さまのはたらきの中にいながら、
迷い続けてきた原因が私の煩悩ではなく、
阿弥陀さまのは
私の自力心であったことに気づかれま
悲しきかな、垢障の凡愚(私たち)、
無際(遥か昔)よりこのかた助正
定散心(自力心)雑する(はたらかせる)がゆゑに、
出離その期なし(さとりを開いて仏になれない)。
みづから流転輪廻を
よって迷い続ける)、微塵劫を超過すれども
(ど
大信海に入りがたし
(『註釈版聖典』四一二頁、括弧内引用者)
煩悩を断ち切らなくても、さとりを開き
仏となる道があったのです。
親鸞聖人はその感動を次のように語られます。
よく一念喜愛の心を発すれば(阿弥陀さまに
おまかせすれば)、煩悩
得るなり(煩悩の日暮らしのまま、臨終にさと
りを開き仏となる)
(『同』二〇三頁、括弧内引用者)
この教えにより、煩悩に苦しむ私たちに、
煩悩を断ち切らずして仏さまになれることを、
自らの生きざまをもって教えてくださいました。
こ
その聖人にお礼申しあげる法要
報恩講なのです。
親鸞聖人のご恩をしみじみとありがたく
感じます。今年も報恩講の季
教えてくださったことをかみしめながら、
ともともにお念仏
いただきましよう。
南無阿弥陀仏
本願寺出版 施本報恩講 阿部信幾師著より
第1441回 取り扱い説明書に気づく
令和2年 9月10日~
掃除機やテレビ・クーラーなど
新しい電化製品を買い求めたとき、
あなたは取り扱い説明書をよく読む方
ですか、それとも読まずに
使ってみる方ですか。
ひと昔までは 一冊の本のように
分厚い取り扱い説明書が付いていましたが、
近頃は数枚の主要な説明だけで、詳細は
ネットで確認くださいとあります。
そこで、スマホなど多くの機能を
持っている機器は、ほんの一部の機能
だけを使って、大半の機能は、まったく
気づかずに 製品の能力の
しか使われていないのが現状では
ないでしょうか。
ところで、自分自身のことは、
自分が一番知っている、自分の能力も
自分性質も全部分かっているつもりで
いますが、はたして 自分の持っている
能力を、本当に発揮しているかどうか
疑問でもあります。
二世代・三世代同居で 家族制度が
機能していた頃は、お年寄りたちが、
自分の経験から導き出した特徴や問題点を
孫や子へ伝えていたのでしょうが、
現代はそうした伝承はほとんど
期待できません。
でも、実は 仏教の教えこそが
この私の取り扱い説明書と
のだと思います。
特に、お念仏の教えは、お念仏を
口にして 仏様の願いを聞かせていただく
ことで、人間とは何か、何のために
生まれてきたのか、そして人間の目的は
何かを教えてくれているのです。
製品の説明書も読まなければ、その
本質は分からないように、
ことも 先輩達が伝え残してくれた
教えを聞いてみなければ
ところは分かりません。
仏さまの願いというのは 人間共通の
願い、すべての人が生きる喜びを
味わうことができ、生きがいを
感じることができる そんな生き方を
教えてくれているのです。
自分だけの喜びではなく、みんなが
そろって喜び生きていける力を、
やがて訪れる老病死を迎えても、
人間らしく
できる道が 説き示されているものです。
自分のものだからと、分かっている
つもりにならずに、一度 人間共通の
取り扱い説明書があることに気づき、
読むのはとても大変ですから、
お話を聞いてみてください。
きっと、今が充実し 深い喜びが、
人間に生まれた 意味と目的が
はっきりとしてくると思います。
南無阿弥陀仏の生活を始めてみると
それが、はっきりと見えてくるものです。
第1440回 命の長短を超える
令和2年 9月3日~
今まで長生きというものは、
時間を延ばすことでした。
医療文化は一生懸命に命の時問的な
長さを延ばすための延命、救命に
取り組んできました。
ですが、現在の医療・福祉の現場で
なされている多くの
考えてみると、どうも私たちが本当に
願っている長生きとは違うように
思われるのです。
量的な長さを追い求める発想では、
確かに生きている
されるでしょう。
しかし、仏の智慧で質というものを
考える視点をいただくとき、
量的発想を超える内容の質的時間への
目覚めがあります。
命の時間的な長短の世界から解放される
質的時問、
今、永遠を生きる」という世界が
開けるのです。
そうすると我々が願っている本当の
長寿とは、量的な時間を超えて
質的な無量寿を生きることではないか
と目覚めるのです。
それは信心の世界での無量寿、
つまり南無阿弥陀仏に出遇うことです。
南無阿弥陀仏に出遇うと、いわば
「仏さまにおまかせする」という、
命の時間の長短にとらわれない世界を
生さることができるようになるのです。
『歎異抄』の第一条には
「弥陀の誓願不思議にたすけられ
まゐらせて、往生をばとぐるなり
と信じて念仏申さんとおもひたつ
こころのおこるとき、すなはち
摂取不捨の利益にあづけしめ
たまふなり」(『註釈版聖典』八三一頁)
とあります。
仏の心に触れて不思議にも摂取不捨
される世界が表現されています。
仏さまの心に出遇って、出遇うべき
ものに出遇ってよかった、
いつ死んでもいい、
いつまで長生きしてもいい、
後は仏さまにおまかせします。
私は与えられた場を精一杯、仏さまの
心をいただき(念仏して)、受け取って
生き切るという「南無阿弥陀仏」の世界に
出遇うならば、そのことが私たちの
本当に願っている長生きではないだろうかと、
この願が私たちに教えてくれているように
思われます。
医療文化と仏教文化 田畑正久著 本願寺出版社
第1439回 宗教的目覚めを求める叫び
令和2年 8月27日~
医科大学で 若い医学生にも仏教を教えて
おられた、真言宗の
「死にたくない」や「長生きしたい」
思いの根は同じだと書かれています。
「死にたくない」や「長生きしたい」といった
欲求は 私たちの多くが
入院した患者さんは、例外なく「死にたくない」や
「長生きしたい」
「死にたくない」や「長生きしたい」といった
思いの根は、宗教的
このご住職は述べておられます。
普通、私たちは過去に生まれて、現在、今を生きている。
そして、未来のいつか 必ず死ぬ、と考えています。
そんな人が 大きな病気をした、高齢になった時
「死にたくない」
ことが多い。
その思いは、生まれてからこれまで 出会うべきものに
出会えない
こんなはずではない。
その出会うべきものがわからない、そんな思いの
背後にあるものが、
出会いたい」という思いである。
すなわち 死なないいのち、「無量寿」に
出会いたいという
叫びである、と言われているのです。
浄土真宗における 宗教的目覚めとは、
仏の世界、仏の心に
その具体的なものが、仏の本願、
南無阿弥陀仏との 出遇いです。
「 南無阿弥陀仏 」という、出遇うべきものに
出遇えないままでは、
という 思いの表れが「死にたくない」や
「長生きしたい」という欲求となるのです。
仏教の無量寿は、時間でいうと 永遠と
いうことでもあります。
寿(いのち)が無量、つまり永遠ですから、
無量寿と無量光(智慧)
「 南無阿弥陀仏 」ということです。
南無阿弥陀仏とは、具体的な仏の
はたらきなのです。
仏の知恵( 無量光 )に触れて、人間の
理知分別の愚かさ、
気づかせて、そういう存在に智慧
いのちある存在にならしめたいという
はたらきです。
南無阿弥陀仏によって仏の大きな
世界に触(感得)れると、
「足るを知る」、「存在の満足」の
世界に生きて
その結果、今日一日を精一杯生かせて
いただくことができ、
おまかせするという世界を生きることが
できるのです。
田畑正久医師 医療文化と仏教文化
本願寺出版社刊
あなたの知らないところに
いろいろな人生がある
あなたの人生が
かけがえのないように
あなたの知らない人生も
またかけがえがない
人を愛するということは
知らない人生を知るということだ
誰でも自分の人生は、何よりも
大切でかけがえがない、とは言いますが、
同じかけがえのない“いのち”を、
私だけではなく、みんなそれぞれに
生きているのです。
お念仏の内で生まれ、育てられて、
お念仏にささえられて生きる人びとを、
親鸞聖人は「御同朋・御同行」と、
手を合わせていかれました。
人に手を合わされたのではなく、
すべての“いのち”に、ひとしく
はたらいて下さってある「南無阿弥陀仏」
に手を合わされたのであります。
ややもしますと、自分さえよければ・・・・・・と、
自分のカラにとじこもり、自分の
ことだけを思う、一人ぼっちの淋しい人生を
歩みそうになりますが、共にお念仏の大道を
歩ませていただける喜びを、
一人でも多くの人と、分かち合いたいものです。
聞法 小林顕英師著 より
第1437回 誰に感謝するのか
令和 2年 8月13日~
多くの人々が、自分の先祖に感謝すれば
喜ばれる 良いことがある。
感謝の思いを伝えるのが仏教であると
思っておられるようです。 ところが、
浄土真宗では、すでに仏に成った親や
祖父母 多くのご先祖をはじめ、
何のご縁もない、見ず知らずの仏様たちが
みんなそろって、
仏に成って、喜び多い
おられるのです。
ですから、自分たちのことより、
残された人々が、心配で
充実した喜び多い人生を、受け取って
欲しい、
「仏さまは、あなたのことを、一人子の
ように心配しておられる
南無阿弥陀仏に一日でも早く、であって
欲しい、気づいてほしい」と呼び続けて
おられるのです。
それに気づくことが、出来れば人生は
まるで違って見えてきます。
先輩たちは、この私に、
何の為に仏になるのか、そのことを
はっきりと
と、呼びかけ
おられるのです。
ところが、話を聞かない人は、
そんなこと、知っている、
分かっていると、聞く耳を持たず、
呼びかけを無視して、
いるようです。
呼びかけに気づき お念仏の生活を
はじめると 自然に 喜びと感謝の
気持ちが 沸いてくるものです。
自分が 喜び多い生活を受け取ると
はじめて 親や 周りの人に
感謝の気持ちが感じられ、
南無阿弥陀仏に生きる
先だった 父母 多くの先祖だけ
ではなく
感謝の気持ちが沸き起こってくるものです。
私一人、 誰かのためではなく、
私一人のために
いるのは この私・・・
この世の命には 限りがある。
一日でも早く、一刻でも早く
気づいてくれ
そのうちそのうち、明日もある
あさってもあると思うと
永遠に聞けない、今、聞いてくれと・・・
阿弥陀さまは、あなたのことを
一番心配して、必ず仏にする
お浄土に生まれさせ、仏と成して、
一緒に活躍しよう。早く気づいて
くれと
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏の
お念仏は 仏様の呼び声
そして、私の分かりましたといいう
返事の言葉です。
子供のころ、親とはぐれて不安な時に、
「お母さんだよ、お母さんだよ」との
呼びかけに
返事をするように。
第1436回 明るい未来が開ける
令和 2年 8月6日~
現代日本人の多くの方は、人間は
死んだらすべてが終わり、この世で
充実した人生を受け取るのが幸せ、
その手助けをしてくれるのが仏教である、
こう受け取るのが常識の仏教であり、
この世だけの宗教なのでしょう。
ところが、浄土真宗は この世
だけではなく、お念仏の人は
お浄土に生まれ
苦しむ人々を救うはたらきが出来る。
お浄土へ生まれて 自分だけ楽しい
喜び多い生活を送るのではなく、
この世で 苦しんでいる多くの人々を
救いに 南無阿弥陀仏の仏と成って
ほしいと
ある 充実した将来が見えてくるのです。
死んだら終わりではなく、明るい
未来が開けてくる、このように
受け取れると、
充実し、喜び多い人生を受け取ること
ができる教えなのです。
定年退職後に 是非一緒に仕事を
しようと、期待して待たれている。
是非 うちの会社に来てくださいと、
世界的な規模の大会社の社長さんが
わざわざこの私のために、迎えに
来ておられるのです。
待っていますよ、期待していますよ、
頼みますよと。是非 我が社へ来て
ほしいと、
来てほしいと、阿弥陀さまが
呼びかけてくださっている。
ご婦人の場合は 阿弥陀さまが
是非 お浄土にうまれて、
人々を救うはたらきをしてほしいと。
待っています。
あなたを待っていますと、期待して
いますと
求婚されているようなものです。
また、仏教というと 多くの方が、
先祖供養であり お墓にお参りして、
お花をあげる など、ちゃんとして
おれば、守ってくださる。
怠っていると、たたりがある。
どこかに恐怖感を持っている方が
あることでしょう。
浄土真宗では、南無阿弥陀仏で
生きてこられた多くのご先祖は
お浄土で仏となって、今、
南無阿弥陀仏とはたらきかけて
おられる。
多くの先祖が、自分と同じく、
この教えに出会ってくれ、お念仏を
口にしてくれ、
はたらきかけておられるのです。
ところが 私たちは 一切気づかずに
いる。
いろいろの
試練を与えておられるのかもしれません。
まだ わからんか、まだ 気づかんかと、
悲しんでおられる。
いつもはたらきかけておられる。
今も幸せであろうが、南無阿弥陀仏に
出会い、お念仏の生活をすると
この世の縁が切れても、お浄土に生まれ
仏と成って、子や孫のために
生きがいある未来があるのだと、
呼びかけ はたらきかけて
おられるのです。
その呼びかけを素直に聞き、頷けるように、
お聴聞をして充実した人生を
送らせていただきたいものです。
第1435回 常識を超える教え
令和 2年 7月30日~
日本人の多くが持っている仏教のイメージは、
厳しい修行をして悟りをひらく
いわれる仏教と、日本古来の民族宗教とを
ミックスした教えであると思われています。
しかし、一口に仏教といっても、
浄土真宗は 日本人が思っている、
このような仏教とは、大きく違って、
人々の常識を超えている教えです。
ご正忌報恩講で、ご伝鈔や伝絵で、
親鸞聖人のご苦労を毎年語りますが、
9歳で得度して、比叡山で20年間
修行し、山を下りて 法然聖人の元に
行かれたことを、繰り返し、繰り返し
説いてきたのは、
捨てて新たな教えに出会われたこと、
従来の仏教とは
ということを、強調するためだと
思われます。
親鸞聖人は、20年間比叡山で修行を
されましたが、この教えでは
人が救われることはない、すぐれた
一部の人は救われるかもしれないが
多くの人々は 取り残されて、辛い
苦しい人生で終わってしまうと
法然聖人が説かれる、すべての人が
一人残らず救われるというお念仏の
教えに
ですから、浄土真宗は それまでの
仏教を否定した、まるで違った教え
なのです。
毎月命日にお参りするお宅で、
お話をしますと、よく、精進が
たりませんので・・・・
とおっしゃる方があります。
努力して努力して 煩悩を無くす
ことが 重要で、幸せになるには
煩悩を無くすことが必要である。
入学試験の勉強のように自分で努力し、
人並み以上に頑張って成果を得る
これを、聖道門の仏教といいますが、
これが一般の常識です。
ところが、お念仏の教えは
煩悩のあるままで煩悩を持ったままで
救われるという教えです。
本人の努力ではなく、仏様の方が
先にはたらきかけ、私を救って
くださる
すべてとの価値観の現代人には
なかなか
自分の努力より 仏様のはたらきが
大きいとは どういうことか。
野球や サッカー ラクビーなど
秀でた選手たちは あちこちから
お誘いがあります。いろんな学校から、
入学してくれと頼みに来るし、
球団やプロのチームから うちに
是非来てくれと誘いがくる、
これと同じように
阿弥陀さまが誘っていただいて
いるのです。
是非お浄土へ来てくれと、スカウトに
来てくださっているのです。
私は平凡で、人よりすぐれた能力は
ありませんが、南無阿弥陀仏の人は
必ずお浄土へ生まれさせ、仏にする、
もうその候補生だとおっしゃるのです。
私の力ではなく、南無阿弥陀仏の
はたらきで、お浄土へ来てくれと
期待され、
私の努力が必要ではなく、私の秀でた
能力ではなく、
南無阿弥陀仏とはたらきかけて、
この私をお浄土へ生まれさせ
仏に成すと、先だった親たちと
一緒になって、呼びかけて
おられるのです。
第1434回 初事とは
令和2年 7月23日~
浄土真宗の聴聞の心得
一、このたびのこのご縁は、初事と思うべし
一、このたびのこのご縁は、我一人のためと思うべし
一、このたびのこのご縁は、今生最後と思うべし
とあります。
よくお聴聞される方は この言葉を、何度も
お聞きになったことでしょうし、
皆でいっしょに声をそろえて、お読みになって
いることと思います。
この最初の「初事」いう言葉は
素直に読むと 同じ話の繰り返しで
あっても 始めてのように
聞きましょうという意味だったと
思われますが、
大きく違った意味が含まれている
のだと感じます。
私をはじめ、皆さんは、戦後の新しい
教育を受けられたました。
知らず知らずに 科学的な頭になる
学校教育を受けてきました。
実証主義とでもいいましょうか、
証明できるものだけが信じられ、
証明できないもの、見えないものは
存在しないという 考えです。
ですから、目に見えない親の恩とか、
師の恩などは、教わりもしませんでした。
日本が戦争を起こしたのは 忠孝の
教育がいけなかったからだと。
また、二元論的な、損か得か、
勝つか負けるか、敵か味方か、
テストも
中間のない右か左か、二つの考え方が多く、
教える側と 教えを受ける側、
助ける側 救われる側、
神様と 私、どうも キリスト教的な
考え方の教育でもあったようです。
そして、社会に出ては、新聞も読み、
テレビも見、
自分は 知らないことはほとんど無いと
思っておいででしょう。
1
特に男性の方は、社会的に責任のある
立場であったでしょうし、
社会の常識は一通り持っており、
この世のことは
自分が知らないことはほとんど無いと。
仏教のことも、だいたい分かっている、
いまさら
お感じの方がほとんどだろうと思います。
しかし、仏教といっても、浄土真宗は
この日本人の持っている
はるかに超えている教えです。
私たちの持っている常識の仏教とは、
大きく違っています。
新聞やテレビ、世間でいう仏教とは
まるで違った教えがあり
この新しい教えを、まったく
知らないのだという気持ちで、
素直に聞いて欲しいということです。
初ごと 知らない話。
初ごととは 知らない価値観を、
聞くという
自分の常識ではなく
新しいことを聞くという
お気持ちでということを
意味していようです。
つづく
そのひとつに「エンディングノート」
というものがあります。
もしもの
伝えておきたいことを書き留めておく
ノート
書いてみたことがあります。
「私の人生の履歴書」という項目のなかに
「お世話になった人」という
私はこれまでを振り返りながら書き
入れてみました。
幼稚園や小中高校の先生方、部活の監督、
アルバイト先の店長、友人だ
書いていきながら、途中でやめました。
なぜなら書ききれなかっ
考えてみれば、これまでの人生を私は
どれだけの方にお世話になったので
しょうか。家族親族はもちろん、名前を
挙げればきりがないほどの多くの
支えられていたのです。
中には忘れてしまった人もいるでしょう、
直
人だけではないですね、これまでの私の
血となり肉となってくださった多くのいのち、
さらにその全てを育んだこの地球、
いやいやその地球を包み込む宇宙。
私一人がここにいるためには、私の知らない
過去も含めて
あったのです。
私たちの先人は、そのことを「おかげさま」
と言ってきたのです。
「そんなこと、仏さまの教えを聞かなくても
わかってます」と思われる
「おかげさまの人生と知りながら、本当に、
おかげさ
聞かれたらどうでしようか。
私は、そんなことはすっかり忘れて、
「自分が、自分が」と暮らしてい
うまくいったら得意げになって自分を誇り、
うまくいかなかった
頑張っているのにうまくいかないのは、
他のせいだ!」と思って生きています。
そんな忘れてばかりの私に、仏さまの
お言葉は、「自分が、自分が、と
いくなかには、こころ豊かな人生は
ひろがっていきませんよ。
い
『おかげさま』なのですよ。
どうかその
と、教えてくださいます。
私たちの日常には、いろいろな場面が
あります。うれしいこと、楽し
感動することもあります。
しかし「誰も自分の気持ちなんか
わ
時もあります。
「なんで私がこんな目に
ならんのじゃろか」と悲嘆にくれたり、
「こんなはずじゃなかっ
ながすこともあります。
いろんなことがわき起こっては消えていく、
思い通りにならない人生しか生きて
いけません。
そんな時、少し立ち止まってみて、
「仏さまは、どうご覧になるだろう」、
「仏さまは、どんなお言葉を語りかけて
くださるだろう」と、一つひとつ
いけるのが、浄土真宗の生き方だと思います。
そこにこそ、こころの視野が広げられ、
本当の安心を恵まれるのでは
久留島法暁師
※筆者は、伝道集団「アサカラザル」の
一員として、漫才法話をはじめ、新しい
形の伝道活動に取り組んでいる方です。
第1432回 お仏壇って 要りますか?
令和2年 7月 9日~
お仏壇がなくても暮らせることは確かです。
でも、お仏壇がある生活とない生活は
違いますね。それは間違いないです。
方向性が生まれます。私か運営する
認知症高齢者のグループホームでも
お仏壇があります。認知症の方でも、
けっしてお仏壇に足を向けて寝転んだりは
しません。
足を向けて寝られないものがある生活と
ない生活、同じであるはずがありません。
お仏壇はなかなか多様な意味や
機能をもっています。
一つは、仏さまをおまつるする場です。
二つ目として、家の軸であること。
さらに三つ目には、先に往った人との
対話の窓口でもある。
私たちは、お仏壇の前に座って
亡くなった人にあれこれ語りかける、
なんてことをしますよね。
うれしいことも、悲しいことも、
語ることができる。
また、先に往った人の声を聞こうと
する場でもあります。
とにかく、お仏壇の前だと、日常の
バリアをおろして、そのままの
自分に戻ることができます。
四つ目として、自分の姿を映す
鏡でもあると思います。
私たちはついつい生き方が偏って
しまいます。
でもなかなか自分の偏りに気づく
ことはできません。
だから、お仏壇の前に座って自分の姿を
映して、偏りを点検するのです。
思いつくまま四つほど挙げてみましたが、
よく考えるともっとありそうです。
もともと浄土真宗では、普通の民家に
「南無阿弥陀仏」のお軸を掛け、そこが
念仏道場となる、といった独特の形態が
ありました。
そこから考えますと、場合によっては、
立派なお仏壇じゃなくても、壁にお名号を
掛けてお荘厳するだけでも家の軸・人生の
軸は生まれるに違いありません。
浄土真宗の終活を考える 本願寺出版社
釈徹宗師の回答
第1431回 お世話され上手になろう
令和2年 7月2日~
現代人は 次第に迷惑かけるのも、かけられる
のも苦手になっているようです。
他者に迷惑をかけないというのは美徳でもあ
るのですが、一歩間違えると傲慢になって
しまいます。
なにしろ誰にも迷惑をかけずに生きて
いくことなんて できないのですから。
かつての地域共同体が濃厚な社会や
大家族制で暮らしていた時などは、
迷惑をかけたり かけられたりしながら
生きることが当たり前でした。
つまり、みんなが上手に迷惑をかけたり
かけられたりする態度を成熟させてきた
わけです。
しかし、私たちの社会は都市化が進みました。
他者に迷惑かけない限りはご自由にどうぞ、
というのが都市のマインドです。
都市には守るべき伝統様式などは希薄ですから。
そして、もはや田舎であっても、生活する人の
マインドは都市化しています。
だから現代人は迷惑をかけたり、かけられたり
するのが苦手になっているというわけです。
でも、どれほど都市化しても、仏教が
説くように、老病死といった苦悩に直面する
日がやってきます。
誰かに迷惑をかけたり、かけられたりする時が
来るのです。
自分は誰の世話にもならないという
傲慢さではなく、上手に迷惑をかける
柔軟な心身を育てていく、それがこれからの
現代人のテーマではないでしょうか。
これを「お世話され上手を目指す」などと
呼んでいます。
お世話され上手になるポイントは
こだわりのないこと」「わが身をゆだねる
こと」です。
そう考えていきますと、古来、浄土真宗が
説いてきた「仏さまにおまかせしていく」のは、
本当に究極ですね。
仏道としての教えだけじゃなく、いかに人生を
生き抜くかといった智恵の面もあると思います。
めざせ!終活の達人
本当の終活を成功させるコツのコツ
本願寺出版社刊
第1430回 天耳通の誓い
令和2年6月25日~
聞こえるはずの耳を もっていても
聞く耳を もたない人がいます。
自分の思いを 相手に おしつげることが
あっても、
耳をかさない人が います。
また、自分の都合の いいことだけは
聞くが、それ以外の
人が います。
これは、他人のことではないのです。
この私が そうなのです。
何でも 聞いているつもりで、何も
聞いていない
込んでしまっているのです。
闇の世界、即ち 無明の世界では、
自分をとりまく すべての人が
自分を利用しようとしている人間、
もしくは 敵に 見えるのです。
だから、どれほど自分のためを思って
話してくださっても
ないのです。
言葉の裏に何かある。
下手に のせられたら ひどい
目にあう。
本気で 聞くと危い、と 耳を塞いで
しまうのです。
結局、私たちは 疑いによって
心を閉じ、耳を塞いでいるのです。
即ち、疑いによって 闇の世界に
住むのです。
しかし、長く闇の世界に
住んでいると、自分が闇の世界に
いることが わからなくなり、
どうせ この世は 食うか 食われるか、
騙すか 騙されるしか ない世界だと
割り切り、 その中で 一喜一憂
しながら 疲れ果てて淋しく
生命終って いくのです。
どうしたら 闇の世界から
でることができるかということが、
闇の世界に 住むものの一番大事な
課題、即ち一大事なのです。
耳を塞ぐから 闇の世界を
さまようのです。
耳を 開けばいいのです。
どうすれば 耳を開くことが
できるでしょうか。
疑いが 耳を塞いで いるのです。
疑いが 晴れれば 耳は開きます。
では、どうすれば 疑いが晴れる
でしょうか。
疑いようのない 真実に 遇わない限り、
疑いは 晴れません。
どんなことがあっても 裏切ることも、
あざむくこともない
真実に 遇う以外、疑いの 晴れる道は
ありません。
逃ぐるものを 追わえとり、
どんなことが あっても
摂取不捨の本願に遇って、はじめて
閉じた心が 開き、塞いでいた 耳が開き、
疑いが
騙されても いい、利用されても いい、
私には どんなことが あっても 捨てる
ことのない
「 騙されては 」と、きばる 必要もない、
「 利用されては 」と、力む ことも
ないのです。
耳に 届いてくるものを そのまま
聞こうと耳が 開き、
闇は 消えるのです。
摂取不捨の本願に 遇い、いいも 悪いも
如来に任せて
精一ぱい 生きようという 信において、
私の耳は すべてのことを 自由に
聞くことのできる
天耳通を得るとき、耳に 入ってくる
すべてのものが
慈悲の言葉となって、我が身に
届いてくるのです。
木村無相師は『 念仏詩抄 』の中で、親鸞聖人の
「 ご和讃 」をよろこんで、
ナモアミダブツを となふれば
十方無量の 諸仏は
百重 千重 囲繞して
よろこび まもりたまふなり
わたしを とりまく一切が
諸仏であると 今しった
一切諸仏に まもられて
今日ある わたしと 今しった
と、うたっておられます。
今まで、私たちは 自分をとりまく人々が
諸仏である
諸仏と 思うどころか、皆 敵だと思って、
油断は できない、
かたくなって 生きてきました。
そうではなかったのです。
わたしを とりまく一切が 諸仏で
あったのです。
やさしい諸仏も、厳しい諸仏も、あたたかく
見護って
あたえてくださる諸仏も
やさしく励まして くださる説法も、
厳しく叱責して
それぞれが 身にしみ、忘れることの
できない説法であります。
私たちは 諸仏にとりまかれ、諸仏の説法を
聞き続けて、
生き抜かせて いただくのです。
すべてが 阿弥陀如来の本願の中での
できごとであります。
人となれ仏となれ 藤田徹文師著
永田文昌堂刊
第1429回 天眼通の誓い
令和2年 6月18日~
一休禅師が ある日、一人の小僧さんと
檀家の法事に参られる途中、たまたま
「うなぎ屋」の前を通りかかった時の
ことです。
禅師は 大きな声で「うまそうだな」と
一人言をいわれました。それを聞いて
小僧さんはびっくりしました。
「自分たちでも、うまそうだな、と
いうのは行儀のいいことではない、
いわんや、一休禅師ほどの人が、
どうしてだろうか。
ひょっとしたら、昔こっそりうなぎを
食べられたことがあるのだろうか。」
こんなことを次から次と考えると、
他のことはすべてうわの空になって
しまいます。
とうとう思いきって夕食の給仕の時に、
小僧さんは一休禅師に うなぎ屋の前での
一人言はどういうことかと尋ねました。
するすと、一休禅師は「そんなことを
言ったかな、それにしてもお前は
まだ うなぎ屋の前をウロウロして
おるのか」といわれたそうです。
うなぎ屋の前では うなぎがおいしい
と思い、花屋の前では花を 美しいと
ながめ、果物屋の前では果物を賞味し、
その時その時、眼に入ってくるものを
精一ぱい見て味わっていく時、人生は
限りなく広がり、豊かになります。
世の中には数かぎりない世界があるのです。
これらの数かぎりない世界を、自からの
「思い」だけで見て、一つのことに
とらわれ、そのことだけにしばられると、
どれだけ多くのものを見ても、何にも
見ていないのと同じ、狭く、貧しい
人生で終わるものです。
自分の小さな「思い」にしばられて、
だんだん視野を狭くしていく私たちの為に、
如来は「天眼通」を誓ってくださるのです。
私たちは、自分の「思い」でみた見方を
他に押しつけますし、他の見方をするものは
すべて間違いであると きめつけています。
そして、すべてを自からの「思い」の中に
引きずり込もうとします。
そして、自からが傷つくばかりではなく、
他の人をも大いに傷つけているのです。
こんな生き方しかできない私たちを、
阿弥陀如来は悲しんで、自由にものを
見ることのできる能力、「天眼通」を
誓ってくださったのです。
自由にすべての世界を見ることのできる
能力で、私たちの人生は無
豊かさをもちます。
阿弥陀如来をよりどころに生きる信心に
おいて、無用の力みや きばりはなくなり
ますし、小さな「思い」にしばられることも
なくなります。
阿弥陀如来は 自分の狭い「思い」に
とらわれて生き方ている私たちを、悲しんで、
自由にものを見ることのできる能力、
「天眼通」を誓ってくださったのです。
人となれ仏と成れ 永田文昌堂刊
藤田徹文師
第1428回 他力のお育て
令和2年 6月11日~
深川倫雄和上のご法話にこんなところが
ありました。
今でこそ、癌という病気は治療方法も
開発され、あまり恐れる必要もなくなって、
本人にも病状を正確に説明し治療をして
いますが、この30年ほど前までは、
患者本人に告知するかしないか、
むずかしく悩み多い問題でした。
山口県に広兼至道という、若い
四十五歳の僧侶の方が、癌で亡くなられました。
その四年前に精密検査をして癌である
ことを、お医者さんは奥さんに知らせました。
それから二日経って、いつもと変わらず
明るく接する奥さんに
「一昨日お医者様の検査の結果が出ただろう、
如是我聞というんだからな、お
思いは加えずお医者様の言葉を減らさず、
聞いた通りを言ってほしい。」
と、そこで覚悟を決めて、奥さんは。
「もうボロボロで、手当ての仕様がない。」
と言われましたと・・・
奥さんの話では、目をバッチリ開けて
聞いていたご主人は、
「そうだったか、あんたは辛かっかね。」
と、言ったといいます。
お念仏の、他力のお育てをいただいて
いますと、私に問題になるのは、
自分の問題ではなく、私の他である仏様です。
自分が問題なんじやなくて仏様、仏様
仏様と自分を無にして、
ついてくる、そこで、癌を告げられた
自分の思いよりも、
妻の思いを、先に気掛ける様に
育てられていたのです。
「お医者様からそれを告げられてから、
二日間、どう言おうか、言わずに
おこうか、あんたは、どれ程
辛かったろうか。」と自分のこと
より奥さんのことを
という、有り難いですね。
(如来にきく 探求社刊)
お念仏を喜ぶ人、妙好人・
因幡の源左さんにも こんな言葉が
残っています。
ある方が「歳を取ると気が短くなって、
よく腹が立つようになるものだが、
なんでも堪忍して、こらえて暮らし
なされや」と言うと
「オラは まんだ人さんに堪忍して
あげたことはござんせんやぁ。
人さんに堪忍してもらってばかり
おりますだいな」と、
よく聞き取れずに
源左さんは「ハイ、オラは、人さんに
堪忍してあげたことはないだいなあ。
オラの方が悪いけ、人さんに堪忍して
もらってばっかりおりますだがや」と
答えたのです。
お念仏の人は、自分のことより仏様の
はたらきを味わう力が育ってくるもの。
自分より周りの人々の思いを味わう力が
培われてくるのです。
第1427回 念仏は 目的
令和 2年 6月4日~
深川倫雄和上のご法話がありました。
鉢に牡丹を植えると、春になったら
柔らかい芽が出て、真ん丸な牡丹の
つぼみがで
鉢からありとあらゆる栄養を吸って、
もう咲かんばかり、はち切れんば
つぼみになる。
ところが、ここが寒いのでなかなか
咲かないが、
持って行ったら、その日のうちに花は
開きます。
温室に入れて、牡丹が新たな栄養を
受けるんじやあない。
もう一切の栄養は受けておって、温室が
ぬくいから すぐに花が開いたんだ。
お浄土に行って、何か貰うんじやない。
もう目的は達したんだ、死なんでも
ええんです。
信心の初一念に平生業成ということは、
往生が定まるだけでなくて、成仏の
功徳が満ち満ちるということでも
あるんだから、それを大きに喜ばねば
ならんのです。
念仏は手段ではなく、念仏は目的なんです。
念仏は目的だから、その先のことは
すべてプログラムが出来上がっている。
いま功徳がいっぱいあるんだ。
おそらく、重病の寝床に伏せっておる私、
考えて見れば礦劫已来の迷いの歴史を
引
終りに休んでおると、ビニール程の
生死の境が
過ぎて行くであろう。
そうしたら、正覚の華より化生して、
悟りの華が開く。
「念仏は、まことにお浄土に行く種か、
地獄の種か、存じません」とご開山が
がおっしやったちゅうんです。
「念仏は手段ではないぞ、念仏は目的だぞ。」
ちゅうことだ。念仏が手段で往生成仏が
目的ならば、「念仏は地獄の種か、
わしや知らん。」
なんて、そんなこと言えるもんじゃないんだ。
念仏は目的だから、だから、それから
先のことはどうでもよろしい。
今、さとりの功徳が満ち満ちている。
身は汚いけれども、着物の中に
住んでおる私の裸の体の中に、
仏の功徳がみな満ち満ちておる。
死なんでもええんだ。
貰ろうものはみな貰ろうた
生死の境は、コンクリートや鉄の
扉の様な、大仕掛けなものでは
ないんだ。
蚊帳の様なものが、私の身の上を
過ぎて行ったとき、世界が変わる。
そこはもう浄土である。
深川倫雄著 如来を聞く 探求社刊
第1426回 人生を導く教え
令和2年5月28日~
教行信証の「教巻」の最初には、
謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。
一つには往相、二つには還相なり。
往相の回向について、真実の教行信証あり、
とあります。
これがいわゆる浄土真宗とは何か
といったことに対してお答えになられた
言葉であると思うのです。
簡単な言い方をしますと、浄土真宗とは
何ですかと問うて、それは仏教であります
というのが、まず答えです。
では仏教とは何ですかと、こうなりますと、
仏教とは何かというと、自ら助かり、また
そのことが他に伝わり、他が助かっていく
ということがずっと連続していくことが
仏教というものです。
親鸞というお方は、最初と終わりを
ちゃんと意識しながら書いていらっ
しゃいます。
そして、教行信証の最後の所に『安楽集』
の文をひかれて、これまで、ずうっと
いろいろ言うてきたのは何のためであるか
というと、前に生まれん人は後を導き、
後に生まれん人は前を訪い、そして
その無辺の生死海を連続無窮にして
尽くしていくためであると。
これが仏教というものであると。
前に生まれた者は、「ああ自分は
自分のとこですんだ、もうあとはいい」と、
こういうことではないんです。
前に生まれた人は後を導く、つまり
自分だけ助かったからもういいという
ことじゃない。後に生まれた者、
他の者に及んでゆく。
そして、そういうことがあると、
後に生まれた人が、今度は前を尋ねて
いくことができるようになる。
後に生まれん人というのは、これは
今日の我々と考えていいです。
我々がどうしたらいいんだろうかと
迷った時に、どこにもヒントを
見い出すことができないというのは
悲劇です。
今日の人間は、どうしたらいいん
だろうかと分からなくなったら、
本当に分からなくなるんです。
それで、あとはもう絶望して
沈み込んでいくよりほかありません。
今、多くの家庭で、前に生まれた者が
後を導くということをなくしたようです。
生きるということについて、何のヒントも
与えてないわけです。
ですから、後に生まれた者は、ぶつかったら、
その後どうしていいかわからなくなるわけです。
どこに尋ねればいいんだろうか、そういう
尋ねる場所を持たない。そういう点では、
我々は非常に不幸な時代に生きているようです。
現代は、外見は華やかですし、豊かそうに
見えます。
けれども、内面の貧しさは、もう覆うべくも
ないですね。
知識情報量は大量に持っていますけれども、
しかしそれは頭の中だけの話であって、
人間は頭だけで生きている存在ではありません。
ちょっと複雑なこと、ちょっと自分に
分からないことが起こってくると、もう
パニック状態になります。
どこに何を尋ねたらいいか分からない
ということになるんです。
そういうことを思いますと、後に生まれた者が
どこに尋ねたらいいのかという目印になる
ものがほとんど見失われてしまった時代
だと言わざるをえません。
平野修著 親鸞からのメッセージ 法蔵館刊
平野修先生の本に こんなところがありました。
ある年の正月に 兄弟達が「どこそこに
遊びに行こう」と、
私を誘ってくれましたが、その時私は「行かん」
「行っても面白くないもん」と、言ったんです。
それを父親が聞いて
「あんたは行かない先から、どうして行った
結果まで分かるの?」
そして、そのあとに付け加えて
「お前は、百人居て九十九人の愚かな人に
誉められるのを非常に喜んで、
一人の本当に智慧ある者の言うことを
喜ばないだろう」
何のことか分かりませんでした。
当時は十歳余りですから、それから
四十年近くの年月がかかって 最近、
やっと
と思います。
「ああ、やはり親だな。私の全身を
見抜いておったんだな」と思うんです。
一つは、経験しないことを先立って
考えて「行っても面白くない」と、
行かないうちから言う。こういうのは
怠け者なんです。
怠け者は「それは分かっている」と
言います。
それは厚かましいことであり、
ま
こういうことを「懈怠(けたい)」と
いう字が伝えられています。
これは、本当は解っていないのに
解っているとするのを
言うんです。
『教行信証』では「懈怠」という言葉を
ある経典から引いて用いられています。
これは解らないのに解ったとして
いますから、もうそれ以上解ろうと
しません。
つまり怠けるわけです。
我々の精神が陥りやすいところで、
分かったとして
しませんから。
うちから分かったことにして
いるんですから。
「そんなもん、やったって同じや」と、
「無駄だからやめておけ」と、
本質的に怠け者なんです。
我々の本質は、どうも怠け者と
言っていいかと思います。
もう一つの「九十九人の愚か者に
誉められるのを喜んで、一人の
賢い者の言うことが聞けない」という、
これが分からなかった。
その「一人の賢い者」というのは誰か。
最近、やっと「そういうことか」と、
こう思えるようになりました。
仏の教えなんですね。
仏のことを指して「一人の賢者」と
父親は言ったんです。
九十九人の愚か者というのは、
この世全体を表したんです。
お前は
流れというと、「愛欲・名利」
というものが、この世の姿です。
結局そんなものに振り回されて、
そして、それ以上のことは耳にしない。
「お前は愚かにして、仏の法など
耳にできるような者でない」と
い
親だったから、私の本質を見抜いて
いたのでしょうね。
平野修著 親鸞からのメッセージ
①より 法蔵館刊
浄土真宗で 仏さまを信じるということは、
仏とか浄土という言葉をとおして
表わされたものにふれ、それを知見して
ゆくということで、私自身が変わって
ゆくということでもあります。
人間の知るという働きには、
よく学んでもの知りになるというような、
頭で知る知り方と、自分の心の
みにくさを思い知り、親の心の
あたたかさにめざめるというような、
心で知る知り方とがあります。
頭だけで知る知り方は、どれほど
知恵がすぐれていようとも、
ただちに人間それ自身が変わって
くるということはありません。
しかしながら、心で知る知り方は、
それが自分の内に向かうことに
よって成り立つ、めざめの体験であり、
そこにはかならず、人間自身が変わって
ゆくということが生まれてきます。
自分自身の中に、悪をいたみ、
善をめざす心がしだいに大きく
育ってきて、その心が、内側から
私をつき動かしてくるようになります。
そしていままでよりも、いっそう
動きたくなり、動けるようになって
くるのです。
仏さまを信じ、新しい知見の世界が
ひらけてくるようになると、変わって
ゆくといった意味がここにあります。
法味あふるる随筆や歌をとおして、
多くの人々に知られている
甲斐和里子さんが、その晩年に
自分の信心について語られた中で、
「私は年をとって外面はいよいよ
不細工になってゆくけれども、
内面の心根の方は、老いるに
したがって、すこしずつマシに
なってゆく 若いときより
年をとったいまが、すこしマシに
なったように感じられます。
人間がすこしずつでもマシに
なるということは、ただごとでは
ありませんが、これもひとえに
お念仏のおはたらきです」
といわれておりますが、ここに
真宗の信心に生きるものの、
まことの姿が明かされている
ように思います。
真宗の教えを聞くようになり、
念仏をもうす日々がすごせる
ようになったら、人間がすこしずつ
マシになってゆく、念仏をもうし、
仏を信じて生きるということは、
たとえどれほどわずかであろうとも、
古い自分の皮を脱ぎながら、
新しい自分にいっそう成長して
ゆくということなのです。
そして 真宗においてみ仏を
信じるとは、この生命のあるかぎり、
いよいよ深められてゆき、脱皮と
成長をかさねてゆくということに
ほかなりません。
「すこしずつマシになる」という
言葉は、真宗を学び、念仏をもうして
生きつつある私にとっては、
とてもきびしくひびいてまいりますが、
この言葉を大事にして生きたいと
思うことであります。
信楽峻麿(しがらき たかまろ)著
真宗入門 百華苑刊
第1423回 ほんものの念仏
令和2年 5月7日~
真の念仏とは、浄土真宗でいちばん
大切にいただいている『無量寿経』に
説かれているもので、それは
私から仏への方向において
念仏であるとともに、
方向をもって
いいます。
もしも念仏が、私から仏への
とどまっていたならば、
ほんものの念仏
そういう私から仏への方向に
ひたすらな念仏が、
逆に
私の日々の生きざまが、
浄土の心によって
ような
ほんものの念仏になるのです。
私が「なもあみだぶつ」と
しながら、その念仏を
ありのままの
胸の中、
知られて、私の足もとが
底がぬけて、
ゆくならば、そこに成り立つ
真の念仏、ほんものの
それは「私が仏を念じる」
あるとともに
仏の念仏ともいいうる
しかし、このような
おいては、
生きざまが根源的に問われ、
きびしく
またそれと同時に、私の心の
もっとも深いところに、
新しい生命が
人生における畢竟のまこと、
いわれるべき生命の
ほんものの念仏とは、つねに
こういう真実、まことの体験を
成り立つものであります。
そういう意味においては、
「なもあみだぶつ」と称える
私が仏に向かい、
それがそっくりそのまま、
真実の世界から、
「なもあみだぶつ」でもあるわけです。
私が念じている念仏が、
念じられている
念仏が、
念仏、そういう深い味識の中に
くるような念仏を、ほんものの念仏といいます。
親鸞聖人が「本願の念仏」
「他力の念仏」と
すべて
そしてまた親鸞聖人は、
「智慧の念仏」とも
このようなほんものの念仏に
いままでとは
世界が
光がさしてくる、ということで
浄土真宗の教えを学び、つねに
念仏をもうして生きるものには、
どれほどきびしい人生で
やがてきっと平坦な
またそのだれもが、かならず
しあわせをしみじみと
親鸞聖人は、このような
念仏に生きよ、
信楽峻麿(しがらき たかまろ)著
真宗入門 百華苑刊
第1422回 雑行・雑修自力の心
令和 2年 4月30日~
「雑行」とは、元来は「正行」に対する
言葉として用いられました。
その意味は「雑多の行」の略で、念仏以外の
雑多な諸行をあらわしていました。
また「間雑(けんぞう)の行」ともいわれ、
さまざまな内容の行がまじりあっていると
いう意味でもありました。
また、「正行」が阿弥陀仏のお浄土に
往生するための正当な行であるのに対して、
「雑行」は正当でない行という意味を
あらわします。
このような「雑行」によって、
阿弥陀仏の浄土に往生しようとすることは、
お念仏一行を往生浄土の「正行」と定めて
くださった、阿弥陀仏のおこころを正しく
受け取ったとはいえません。
それは阿弥陀仏の仰せに順わず、自分勝手な
理解によって行じているに他なりません。
人間が自分の考え方に閉じこもって、
阿弥陀仏の仰せを無視していることでも
あります。
ですから「雑行」とは自力に執着する姿を
あらわす言葉になります。そこで蓮如上人は
「雑
と、自力をあらわす語として用いられる
ようになったのです。
他力の信心とは、仰せに順うことのほかに
ありませんが、別の表現をすれば、自力を
たのむこころを捨て、本願他力におまかせ
することであると、その内容を明らかに
されたのでした。
御文章を読む 天岸浄圓師
本願寺出版社刊
第1421回 一切の聖教章の大意
令和 2年 4月23日~
浄土真宗の教えの第一義は、
南無阿弥陀仏の六字のいわれに
尽きます。
その例を挙げますと、
南無阿弥陀仏とは、南無と
帰命すれば、即座に阿弥陀仏が
おたすけくださる道理を
あらわしています。
その南無の二字は帰命と翻訳を
されました。その帰命とは、
雑行といわれるさまざまな
自力の行を捨てて、素直に
阿弥陀仏の本願にしたがい、
仰せのままに「後生たすけたまえ」と、
一筋におまかせすることです。
このように自力を捨てて
本願におまかせをすれば、
阿弥陀仏はそのことを
よくご存じになられて、
必ずおたすけくださるのです。
このように南無とおまかせ
する者を、阿弥陀仏は必ず
おたすけくださるという
道理をあらわしていますから、
南無阿弥陀仏とは、私たちが
阿弥陀仏の仰せに順う、
他力の信心一つで、あらゆる人
が平等にたすけていただける
道理をあらわしていると
知らされます。
ですから、他力の信心と
いっても、南無阿弥陀仏の
おこころを知らせていただく
よりほかにはないのです。
このようないわれでありますから、
仏法をすすめてくださる
「お聖教」は、すべて南無
阿弥陀仏の六字を信じさせる
ためのものであったと
心得るべきであります。
本願寺出版社 御文章を読む
天岸浄圓師
第1420回 往生と成仏 お浄土の道は渋滞中?
令和 2年 4月16日~
「往生する」という言葉を聞いて、
どのようなことを連想されるでしょう。
例えば、テレビのニュースなどで、
「高速道路が通行止めとなり、料金所を
先頭にして数十キロにわたって、
立ち往生しています」というふうに
アナウンスされていることがあります。
この場合、「立ち往生」は、「その場で
身動きが取れない」という意味で
用いられています。
さらに、「立ち往生」と聞いて、
思いあたるものはないでしょうか。
それは、歌舞伎十八番といわれる
演目のひとつ、『勧進帳』で有名な
武蔵坊弁慶の最期の姿でしょう。
主君の源義経を守るために、
その身を挺して、数多の敵兵から
無数の矢を受けてもなお、薙刀を
持って「立ち姿で、往生する」
という逸話です。
歴史的事実かどうかは別として、
「立ち往生」は、一般的に
「その場で、立ち姿のまま、息絶える」
ことであると理解されわれる
ようになったともいわれています。
そうしますと、「往生する」
ということは、「困りはてる
(止まる)」「死ぬ」というふうに
考えてしまいそうですが、実は、
どちらも誤っているのです。
なぜなら、[往生する]という
言葉は、「(迷いの世界である
此岸から、さとりの世界である
彼岸に)往き生まれる」という
ことをあらわす動詞であるからです。
このように、「往き生まれる
(往生する)」という言葉には、
文字通り、「往く」「生まれる」と
いう意昧がありますから、
まったく逆の意味となってしまうでしょう。
また、「成仏する」という
言葉についても、「往生する」
という言葉と混同して、どちらも
「息絶える」という意味で
使われていることがあります。
ところが、「成仏する」という
言葉は、「仏(陀)に成る」と
いうことを表したものですから、
さとりを開く」という意味で
あるのです。すでに私たちは、
この世で成仏している方、
釈尊(釈迦牟尼仏)を知っています。
そして、その説法を通して、
阿弥陀仏の教え を聞いて
いるのではなかったでしょうか。
私たちは、「(この世で)成仏する」
ことができるほど、勝れた
心のもち主ではありません。
ですから、釈尊は、「(阿弥陀仏の浄土に)
往き生まれる」ことを勧め、
そして、「(浄土に生まれると、
たちまち)さとりを開く」ことが
できるという浄土真宗の教えを
お説きになっています。
そこで、親鸞聖人は、私たちの
「往生」「成仏」の道が、阿弥陀仏の
はたらきのうちに開かれている、
ということを明らかにお示しに
なっているのです。
本願寺出版社刊 佐々木義英師著 なるほど浄土真宗
第1419回 死と往生の違い
令和2年 4月9日~
一般に、人の死を往生と表現する習わしが
ありますが、人が死んだからといってみな
往生するとは限りません。
往生とは阿弥陀如来の浄土に行くことであり、
涅槃界に仏と
当然、そこには往生するための手続きが必要で
あって、そ
いのちが終わったからといって往生できる
はずはあ
すなわち、煩悩悪業そのものである私を
浄化し、涅槃界に導くエネルギーとしての
名
浄土に生まれ変わることができるのです。
阿弥陀如来の名号を聞き、それを確かに
受け止めた者にとって、浄土は想像の世界で
はありません。
それは、即物的に見たり触れたりすることは
できませんが、法則的に確
心眼に映るのであります。
浄土往生は単なる願望や期待ではなく、往生
こそが最も確実不動のものなのであります。
その往生が死を契機とするものですから、
今生の別れという愛別離の悲嘆を避けるこ
できませんが、それは永遠の決別ではありません。
この煩悩繁き肉体が死んで、ふたたび泣いたり
別れたりすることのない光の国、浄土
のですから、内容的にはまことにめでたい
門出であります。
と同時に、それ
阿弥陀如来の大慈悲のはたらきに参画するのであり
ますから、そこには不安も恐怖もなく、安らかに
死に臨むことができるのであります。
阿弥陀如来の本願を信ぜず、名号を受け取らない
人にとっては、浄土は存在しません。
それは夢想の世界であり、架空のものであります。
その人にとっては、現実ここにいる
存在で、したがって死は無の世界への帰着です。
無の世界とは、光な
暗黒の底に引きずり込まれていく死は、恐怖と
不安以外の何もので
このような暗黒の世界を地獄というのです。
このように浄土に往生するためには、必ず
身体的死を契機としなければなりませんが、
死は必ずしも往生ではないのです。
このように言いますと、往生は完全に死の向こう側
のようですが、ひとたび名号を受け止めた者に
とっては、浄土は向こう側の世界であり
同時に現在、感応同交することができるのです。
身体という煩悩そのものを断ち切ったのでは
ありませんから、即座に浄土に往生はで
念仏申しつつ、心ばかりは浄土を感じるのであります。
この世を先立って
異にしながら、同じ阿弥陀如来の大慈悲のなかに
抱かれてあ
本願寺出版社 霊山勝海師 やさしい真宗講座
第1418回 水の浮力
令和2年 4月2日~
阿弥陀さまのはたらきを説かれた、
こんな文章を読みました。
海から遠い農村に育った私は、
小学生の頃、
中学に入って日本男児で泳げないことを
辱められて、
そのため、ずいぶん水を
溺れる思いをしたものでした。
泳げるようになってからは、手足の力を
抜いて水の上に身体を投げ出しますと、
水の浮力で身体は自然に水面に浮き、
大空の雲を眺めながら休むこともできます。
本来、人間には肺という浮き袋が内蔵
されており、
浮くように
泳げるようになろうと、懸命に手足を
バタつかせ必死で努力していたのは、
考えてみると一生懸命水に沈むための
訓練をしていたようなものです。
足をバタバタ動かし手で水をかきながら、
浮力に抵抗して水のなかへ自分を沈没
させていたのでした。
阿弥陀如来の本願の前での人為的な
思惑や行為は、讐えてみると泳げない
ときの手足の無駄な運動と一緒で、
ジタバタすればするほど迷妄の深淵に
沈没するのです。
本願の海に入ったら、自分で力む必要は
ありません。両手両足を投げ出して
本願海の浮力にまかせてしまえば、
水を飲んで溺れる苦しみを味わう
ことはないのです。
本願の海に浮かぶコツを知ったら、
その水の性質を利用して、自由自在に
泳ぎ戯れることができます。
急ぐなら抜き手を切ればいいでしょう。
水球をするのなら、立ち泳ぎをすれば
両手が自由に使えます。
自分で手足を動かして泳ぐのですが、
先の泳ぎを知らいときとは意味が
異なります。
本願海の浮力という法則にかなった
動きであって自分で動作しながら、
本願海が泳がしてくれているとの
謝念となるのです。
無義とは、人為的配慮や行為をいっさい
加えないといういみですが、それは同時に
無疑でもあります。
本願に対して疑うことがないから、
私の側で加えるものが何もいらな
いのです。
人為的な営みがかえってさまたげと
なって、阿弥陀如来の本願を信受する
ことができないのです。
如来の本願の前では わたくし的な
思惑や行為はすべて投げ捨てて、
ただひたすらに「往生のことは如来に
まかせて、念仏申せ」との仰せに
うなずくだけでよいのです。
やさしい真宗講座
霊山勝海師 本願寺出版社
第1417回 価値観の転換
令和 2年 3月26日~
信心を得ることによって、今まで生きてきた
価値観に別れを告げ、今まで知らなかった
新しい価値観の世界に生まれ変わるのです。
昨日までは人間的欲望を中心とした世界を
生きてきました。
愛情や富、健康や名声は好ましく、憎悪や貧困、
病気や別離は嫌悪する世界でありました。
しかし、新しい価値観に生まれ変かった私には、
貧困や病気は つらいことに変わりありませんが、
貧困は貧困なりに、病気は病気なりに、私の
人生に意味あるものとして再発見されるのです。
憎悪や別離のようなものさえ、キラッと光を
放って輝くのです。
ですから、信じて何かを実践して、その結果、
ご利益をいただくという形の信心とは言葉は
一緒であっても、本質的に異なるのです。
浄土真宗でいう信心は、信じることでありながら、
同時にそれはご利益でもあるわけです。
浄土真宗の信心と他の宗教のそれを区別して、
浄土真宗では 信心であって信仰ではないと
いう人がいます。
しかし、信仰という語と区別すれば、信心が
明らかになるというものでもありません。
現に、神信心とか‐‐|鰯の頭も信心から」
というような使い方がされますし、自力の
信心という語もあります。
信心という語自体も、決して浄土真宗の
独占物ではないのです。
信心の中味の違いは、「何を信じたか」
という信心の対象により決定するのです。
怨霊を信じれば、恐怖心を生じるでしょう。
お金儲けの甘言を信じれば、やがて破綻の
憂き目を見ます。
奸臣を信じた君主は、やがて身を滅ぼします。
釈尊によって発見された、涅槃への法則である
阿弥陀如来の本願を信じることにより、
私どもは生死のきずなを断ち、新しい
価値観の世界に生まれ変わるのです。
やさしい真宗講座 み教えに生きる
霊山勝海師 本願寺出版社刊
第1416回 聞くということ
令和2年 3月19日~
ものをいただくとき、普通、手で受け取ります。
お土産やプレゼントなどをいただくと嬉しいものです。
ものに託された相手の心が伝わってきます。
しかし、手でいただいたお土産は食べたらなくなりますし、
もらったお小遣いは使ってしまったら後に残りません。
ものを受け取るのは、手だけではないのです。
形がないので もらったという気がしませんが、
耳で受け取る場合があります。
誰かから、自分の行いや業績をほめられてごらんなさい。
少々の金銭を受け取ったことに倍する満足感を味わう
ことができます。
あるいはまた逆に、自分を侮蔑したり過小評価
されますと、一生忘れることのできない憎悪となって
私の心のなかに蓄えられます。
このように、人間の精神状態は耳から受け取ること、
すなわち聞くことによって大きく左右されるものなのです。
如来の慈悲の結晶である名号は、手では受け取れません。
耳で聞いて受け取るのです。
受け取ると言えば能動的に感じられるかも知れませんが、
耳は本来、受動的な器官で、自分の意志とは無関係に
嫌でも聞こえてくるものです。
耳から入った名号は、貪欲・眺恚・愚痴の煩悩で
濁りきった私の心のなかに、根を下ろします。
煩悩のどぶは、名号にとって極めて適地であります。
どぶを養分としながら、濁りに汚染されない
信心の華を咲かせます。
また、この華はよい匂いを周辺に漂わせます。
「なんまんだぶ、なんまんだぶ」の称名は、
信心の華からこぼれ出る匂いなのです。
名号はただの六文字ですが、それは如来の
真実心ですから、底知れない煩悩のなかに入って、
それを信心に変えてしまうのです。
阿弥陀如来の慈悲である名号は、聞くこと
以外に受け取る方法はありません。
聞くことによって、誰にでも受け取ることができます。
学問の有無、社会的地位の高低、年齢の多少に
関わらず、誰でも聞くことができ、
心に大きな安らぎを得ることができるのです。
ただ聞くといっても、音波を鼓膜に感ずる
ことではありません。声を通して向こう側の心情を
受け取るのですから、名号は誰のために、どういう
手続きを取って完成されたものであるかを聞いて、
大きなうなずきを得るのです。
ですから、書物を読んでその奥にひそむ心情を
読み取ることも、聞くということができます。
このような営みを聞信、聞即信、あるいは
信心獲得というのです。
信心といっても、名号のいわれを聞くことの
他にはないのです。
やさしい真宗講座 み教えに生きる 霊山勝海師
第1415回 終活で一番大事なこと
令和2年 3月12日~
「お仏壇やお墓を残していくのは、若い者に迷惑が
かかるので、生きているうちに始末しておこう」と、
墓じまい、仏壇じまいということをよく聞きます。
これまで手を合わせ、お参りをしてきたお墓。
礼拝をしてきたお仏壇は、自分が死んだら、
もうなくなってもよいようなものだったのでしょうか。
新聞で見た川柳に、「行く先を告げずに友は逝きました」
との一句がありました。
これは友達は、行方不明になった、ということ。
これを聞いて、ある方が、「生きている人が
行方不明になった時は、警察に届けますが、
亡くなった人が行方不明の時は、どこへ
届けたらいいのですか?」。
そして、その人が続けて「お寺ですね。
手次寺のご住職に届けて、尋ねなくては
ならないですね」と言われた。
大事な連れ合いや、親が亡くなった。
どこへ逝ったか分からない。行方不明になって
しまったのなら。やはり、届け出て、捜さ
なければならないわけです。
その意味で、「終活で一番大事なこと」
というのは、行く先をはっきり告げて逝く
ということではないでしょう。自分の行く先を
はっきり言って逝くということが大事です。
ところが、先に亡くなった人の逝かれた
ところが分からない、
行方不明にしてしまっているので、自分も
亡くなったら行方不明になるわけです。
ですから「自分がどこへ逝くのか」という
ことをはっきり、告げていくことが、
終活で一番大事なのではないでしょうか。
けれども、それが言えない。告げられない。
なぜでしょうか。どうして言えないのでしょうか。
それは、「死んだらしまい」という、いのちしか
生きていないからではないでしょうか。
死んだら終わりだという、いのちしか生きて
いないから、はっきりと伝えられない。
終活の問題というのは、実は人間に生まれた
根本課題、それは何を根拠に生きるのか、
という生きる拠りどころと、方向が問われて
いる問題なのでないか。それがほかならない
「あなたは、どんないのちを生きているのか」。
それが問われているのが終活ではないでしょうか。
終活は、お年寄の話、若い者には関係無いと
言われるかもしれませんが、若い者も年寄りも、
私たちに等しく問われている一大事です。
「私はどんないのちを生きているのか」。
死んだら終わり といういのちを生きているのか、
それともそうでないのか。これが問われて
いるんです。
これを蓮如上人は、「後生の一大事」と。
ですから、蓮如上人のお言葉で言ったら
「後生の一大事」がはっきりしたか、
ということなんですね。
「後生の一大事」を死後の話だと思われる
でしょうが、違うんです。
今、生きているから、後生の一大事が問題に
なるわけです。
自分はどこへ逝くのか。人生の方向性です。
どんないのちを今、生きているのか。
これが問われているのですから、まさしく
今の問題です。
池田勇諦師のご法話要約
三重教区桑名組西恩寺前住職。同朋大学名誉教授。
第1414回 ありがとう
令和2年 3月5日~
南无阿弥陀仏は 報恩のお念仏 喜びのことばです。
一日中 本堂に 浄土真宗のよろこびの歌 仏教讃歌を流していますが
今朝、 特に有り難く 感じた歌がありました。
それは 本願寺仏教婦人会創立150年記念讃歌の
「やさしさに であったら」という歌です。
久井ひろ子作詞 仏教音楽研究所補作 湯山昭作曲
(1)やさしさに であったら よろこびを 分けてあげよう
しあわせと おもったら ほほえみを かわしていこう
海をふく 風のように さわやかな おもいそえて
(2)さびしさを かんじたら だれかに 声をかけよう
ふれあいを たいせつに 語りあう 友をつくろう
花の輪を つなぐように とりどりの おもいつないで
(3)くるしみに であったら ひたすらに たえていこう
合わす掌の ぬくもりに ほのぼのと やすらぐこころ
かぎりない ひかりのなかに 生かされて 生きてゆく日々
もう一つは 高田敏子さんの詩で 「ありがとう」です
「ありがとう」 高田敏子作詞 中田喜直作曲
(1)みほとけの めぐみをうけて こころにみちる ありがとう
ありがとう 花よ きょうの日を明るく咲いて ありがとう
小鳥よ 元気な歌を聞かせてくれて ありがとう
ありがとう 日々のくらしに ありがとうの ことばそえて
(2)みほとけの微(え)笑(み)にてらされ こころにみちる ありがとう
ありがとう 友よ きょうの日をともに過ごして ありがとう
ひかりよ わたしの道をてらしてくれて ありがとう
ありがとう 日々のふれあい ありがとうの ことばささげて
南无阿弥陀仏・南无阿弥陀仏のお念仏とともに
今日も 生かされている ありがとうと 味わえる生活でありたいものです。
第1413回 地獄はあるのか
令和 2年 2月27日~
ある高僧に
「ないと思っているものにはあり、あると思っているものにはない」と
答えられたそうです。
その言葉の意味がわからず、かさねて尋ねると、高僧は
「たとえていえば、刑務所なんかあるもんか、と法律を無視して
生きるものがいるので、そういうもののために刑務所が
つくられているのである。
みんなが気持よく日暮らしする
法律は守らなければ、と
必要ない。
だから、
それと同じことで、仏法なんか関係ないという生き方が
地獄をつくるのであるから、そういう人には地獄はある。
しかし地獄という世界があるそうだから、人間に生まれた以上は、
仏法に随順して本当に人間らしく生きたいと思って
日を
意味のことを
でも「そうはいっても、地獄の話を聞くと人間を串刺しに
火で焼くというが、そんなことは
返ってきそうですが、考えてみて下さい。
私たちの台所では、毎日 地獄以上のことが行なわれている
のではないでしょうか。
人間に食べられる魚や貝はきっと、
思っているにちがいありません。
串刺しにされ、姿焼だと食べられる魚、生きたままで炊かれたり、
焼かれたりする貝、特に 生きてピクピクするのを喜んで、
“やはり生きのいいのに限る”などと、食べる人間は、魚や貝か
ら見れば 鬼以上ではないでしょうか。
そんなことをしている
地獄がないといえる
いつか、逆の立場になり、焼かれたり、切り
ことになるかも知れません。
そんなことは考えたくありませんが、日々やっている私たちが
「ない」というのは、あまりにも身勝手な言い分ではないでしょうか。
親鸞聖人は「いづれの行も及び難き身なれぱとても地獄は
一定すみかぞかし」(歎異鈔)といわれています。
仏になるような行ないや善が、何もできない自分であった。
悪いことや、間違いをおかした時には仕方なかった、
と弁解したり、人間はみな、こんなもんだとごまかす自分。
反対に、少し善いことをすればうぬぼれ、威張り、他人を
責める
そんな自己のあり方、生き方が知らされたとき、
地獄以外にない、と悲嘆されたのが、
親鸞聖人の先のお言葉です。
こういう言葉に出合うとき、「地獄なんかあるもんか、
あったら見せてほしい」と、平気でいう私たちは、いかに
軽薄であり、自己を見失っているかが、イヤでも知らさ
のであります。
如来が、まず第一の願で地獄を問題にされるのは、
「地獄なんか
生きている私たちが、
できなかったからに
私は、自己と自己の生き方を如来のみ教えに
るとき、どうしてもそのようにしか受け取れないのです。
阿弥陀如来の、私の底の底まで見抜いた上での用意周到なる
お手まわしに、ただ頭が下ります。
人となれ仏となれ 藤田徹文師著 永田文昌堂刊
第1412回 48願の最初の願は
令和 2年 2月20日~
お釈迦さまの説かれたお経の一つ、仏説無量寿経には、
すべての人々を救いたいと、一人の国王が修行者となって
立てた48願が説かれています。
そしてその最初の願は、
もし、わたしが仏になるとき、自分の国に地獄・餓鬼・畜生の
三悪道があるようなら、わたしは決してさとりを開きません。
という願です。 では、
○ 地獄とは、他人を責めつづける鬼と、自己をかえりみる
ことのないものの住む世界。
○ 餓鬼とは、欲望(貪欲)に自己を見失ったものの住む世界。
○ 畜生とは、自己と自己の行為を恥じること(漸愧)のない
ものの住む世界をいいます。
私たちは、人間に生まれ、人間の世界に住み、人間として
生きているということに何の疑いももっていません。
しかし、本当に私たちは人間なのでしょうか、本当に私たちは
人間の世界に住んでいるのでしょうか。
急に、おかしなことをいいだしたと思われるかも知れませんが、
縁起をとく仏教では、地獄・餓鬼・畜生にしましても、そして
人間にしましても不変のもの、固定したものとは考えないのです。
それらは生き方によりいつでも変ると考えているのです。
ですから、人間に生まれても、鬼のような生き方をすれば、
姿は人間のままであっても、その人は間違いなく鬼なのです。
普通はそういう場合、「人間が鬼のようなことをしている」
といって、人間であるという前提は変らないように思っています。
しかし、仏教では「鬼が人間の姿をしているだけのこと」と
受けとるのです。
他人を責めつづけるとき、その人は、姿は人間であっても
間違いなく鬼であり、自己をかえりみることのないものは
すでに地獄の亡者であり、共に人間の世界に住んでいるつもり
であっても、本当は地獄に住んでいるのです。
他人を責めつづけるという生き方によって、自己をかえり
みることのないという生き方において、自から地獄の世界を
つくり、その中で鬼として、また亡者として存在するのです。
ですから、私をぬきにして、地獄という世界を考えるならば、
それは単なる空想の世界でしかおりません。
「地獄なんかあるものか、そんなものがあるなら見せて
ほしい」という人がいます。
そんな人にかぎって自己をかえりみることもなく、他人を
責めつづけて今生においてすでに鬼となり、亡者となって
地獄に住んでいる人です。 (つづく)
人となれ仏となれ 藤田徹文師著 永田文昌堂刊
第1411回 お念仏の人は
令和2年 2月13日~
組の仏教婦人会の例会で、こんな挨拶を聞きました。
ようこその お参りでございます。
つい2、3日前から 急に寒くなりましたが、その中にようこそのお参りです。
ところで、私が着ておりますユニホームは 布袍と申しますが、
僧侶の制服です。
この姿で 毎日毎日 家庭訪問をいたしております。
ご門徒もいろいろ方が いらっしゃりまして みなさんのように、
本堂に座って
いまさら
出来ない方とがおられます。
そうして、本堂で お顔を拝見出来ない方々のお宅を訪問して、
お話ししておりますと、いらいら、くよくよ、めそめそ、どうも
辛そうな方が多いように思います。
それに比べて みなさんのように、本堂に座ってお話を聞かれる方は、
堂々として
多いように思います。
何故なのか、どうしてなのか、
本堂でのお話は 仏さまがこの私に向かっていつも、はたらきかけ、
呼びかけて
周りには、自分のために
ご苦労いただいている
大きいことに 気づく力が育っていく、
よかった私は幸せとの思いをもたれる方があるようです。
人間は、自分がしてやったことは、よく記憶しているものです。
ですから、
分かってくれない、
悔しいと、嘆かれている人が
もし、ご主人や、お子さん、お孫さんが、仏教のお話を繰り返し
お聞になると、
気持ちを持つことが
もう一つ 若い時には気づきませんでしたが、年を重ねると
残りが少なくないり
ちょうど、12月31日のような、もう残りがない、おしせまった感じです。
死んだら終わりという世間の価値観では、辛く悲しく寂しくなる
ものですが、
なるものです。
思い出すと、小学校の時には、小学校がすべてでしたが、卒業すると、
中学校がありました。
中学校の時は、中学校だけがすべてでしたが、次がありました。
サラリーマンの方で、定年後どうしようかと、悩んで居る方が
ありますが
12月31日も 一晩ねると 新しい年でした。
この世だけではなく、お念仏の人には 浄土があると
未来が 希望がわいてくる。
しかもお浄土で活躍できる、待たれていると
受け取り方が変わってきます。
先の大相撲、優勝力士が、もう33歳ではなく、まだ33歳と思って・・・・
お浄土があると思える人にとっては、もう80歳、90歳ではなく、
まだ
くるものです。
同じ人生ならば、喜びながら、生きがいを持って、お念仏とともに
堂々と生き抜き、またお浄土でも活躍したいものです。
という挨拶でした。
第1410回 よっかったね
令和 2年 2月6日~
九十四歳で亡くなられた、老ご住職のお通夜に参列しました。
お通夜の導師は、お隣の寺のご住職でしたが、
父親同士が、若い頃から深いお付き合いがあって、自分も若い時に、
いろんなことをと教えて頂いた、誠に有り難い大先輩であったとの
御法話をいただきました。
その一つに もう二十年ほど前、自分の父親が亡くなった時に、
坊守さんが電話で「前住職が今朝方 往生いたしました」と
お知らせし、枕経をお願いしたいと、連絡したところ「よかったね」と、
返事をしていただいたとの思い出です。
普通、亡くなることは悲しくて、「残念だったね」との返事をしますが、
よく知った仲間でもあり、日頃の生活を知っておられることもあり、
「お浄土に生まれ 仏になられたことは間違いない 良かったね」と
おっしゃっていただいたのだと気づき、有り難く、うれしかったことを
思い出すとのお話でした。
老・病・死は 良くないこと、特に死は 最も悪いことというのが
世間の常識です。
しかし、浄土真宗は、お念仏の教えでは、死んで終わりではなく、
南无阿弥陀仏の人は お浄土に生まれて、仏と成らせていただき、
それからは 仏として存分に活躍出来ると説かれている教えです。
お念仏の盛んな地方では、お念仏の人が亡くなると赤飯を炊くと
聞いたことがあります。
この苦しみの世界を生き抜いて、今度はお浄土へ生まれ 仏になられた
目出度く、有り難いことだと、喜びを表してのことでしょう。
しかし、人間の情としては 別れるのが悲しく、赤飯につける汁物は
胡椒を沢山入れて、一口すすると、辛くて辛くて、涙が出る様なものを
準備するといいます。。
亡くなられて、仏と成られたことは、喜ばねがならないのに、
親しい人との別れは、辛く悲しいと、辛い汁物を飲み、みんなで、
涙を流すというのです。
死んだらすべてが無くなり、終わりでは無く、お浄土に生まれて往き
仏に成していただける。「よかったね」「目出度いことですね」と
言い合えるような、そんなお仲間を増やしていきたいものです。
死んだのではなく 往生し、仏に成られた 良かったねと
お互い素直に言えるような、そんなお念仏の仲間とともに
喜びの人生を送らせていただきたいものです。
第1409回 自灯明とは
令和 2年 1月 30日~
釈尊は、「どれほど思うようにならない人生の中にあっても、
確かなよりどころをもつとき、人は力のありだけを出しきる
生き方ができるのだ」と教えてくださいます。
確かなよりどころとして「お金」を、よりどころにしている人がいます。
「地位」を不動のものとして、そこに座りこんでいる人もいます。
しかし、「お金」も「地位」も、いつまでもじっとしていてはくれません。
では、自分自身はどうでしょうか、「自分しかこの世でたよりになる
ものはない」
しかし自分自身も無常の世にあって、死にたくなくても死ぬという
かたちで最後は自分自身の期待をうらぎります。
この世に、最後の最後まで、私たちの期待をうらぎることのないものは、
何一つとしてないのです。
まことに死せんときは かねてたのみおきつる妻子も財宝もわが身には
一つも相添うことあるべからず。(御文章)
と、蓮如上人はいわれています。
悲しいことですが、これがこの世の真実なのです。
では、「よりどころ」をもたなければ生きることのできない私たちは
どうしたら生きていけるのでしょうか。
一体、釈尊は何を「確かなよりどころ」といわれたのでしょうか。
それは、釈尊最晩年のことであります。病の床にある釈尊に、
「もし、あなたがおなくなりになられたら、あとに残る私たちは一体
誰をたよりに、何をよりどころとして生きればいいのでしょうか」と、
涙ながらにたずねた一人の弟子がありました。
釈尊は、この問いに
汝ら自らを灯明とし自らを依処として、他人を依処とせず。
法を灯明とし法を依処として、他を依処とすることなくして住するがよい。
と答えられました。
この自灯明、法灯明の教えは、三十五歳でおさとりを開かれた釈尊の
四十五年間の伝道の結論であります。
自灯明とは、自分の人生、自分の足でたちなさいということであります。
いくらまわりに、自分にとって都合のいい、大きな強い足があっても、
他人の足は、あくまで他人の足です。最後まで、自分の人生をささえては
くれません。
たとえ、小さい弱い足であり ましても、自分の足でたたなければ、
自分の人生にならないと教えてくださるのです。
では自分の足で、どこにたてばいいのでしょうか、
それに答えてくださるのが、法灯明の教えであります。
すなわち、どんなことがあっても滅することのない常住なる
法の上に自分の足でたちなさいと教えてくださるのです。
法の上に自分の足でたつとき、人生は本当に自分の人生となり、
生命のありだけを燃やして生きる人生が開けるのです。
では一体「法とは何か」という疑問をもたれると思います。
この「法とは何か」という疑問が、求法(求道)の出発点なのです。
藤田徹文著 人となれ、仏と成れ より
第1408回 煩悩を持ったままで
令和 2年 1月23日~
あの人は出世した、出世頭などと、「出世」という言葉があります。
社会的にも経済的にも、他の人より抜きん出た人のことを
指していますが、
仏さまが人々を救うために
また、悩み苦しみの多い現実世界を抜け出して、道を求め
出家すること指した言葉でもあったと言われます。
出家して覚りをひらくとは、地位、名誉、財産、家族もみんな捨てて、
仏道修行をはじめることです。
ですから、出世の意味は、現在とはまったく違っていたようです。
自己中心的な生き方をし、競争社会の中で生きていくために
苦しみ悩みがどんどんと増していくものですから、そこから
抜け出す、そのためには、厳しい修行をして、煩悩を無くすことで、
おだやかな
ところ、浄土真宗では、在家のままで、煩悩を持ったままで、
救われるという
蓮如上人は 御文章に
「煩悩を断ぜずして涅槃をう」と・・・・
この義は、当流一途の所談なるものなり。他流の人に対して
かくのごとく
こころうべきものなり。とあります。
どうして、出家もせず、修行もせず、煩悩をもったままで
救われるのか
それは、仏さまの願いをお聴聞することで私が変化して
いくというのです。
仏さまの大きな願いを聞くことで、そしてその願いの通りに、
南无阿弥陀仏のお念仏生活をすることで、修行して悟った人々と
同じ境地に到達できるのです。
その一つのキーワードが 浄土真宗のもっとも大事な法要
である報恩講、この恩を味わう力を身につけることで、
新たな価値観、喜び、生きがいを
というのです。
「恩」の思想は、お釈迦さまが説かれた縁起の法によります。
今、ここに生きている我々は、ありとあらゆる恩を受けて
生かされている。
見えるものだけでなく、目に見えない因縁にまで思いを
寄せることができるようになれば、過去の全ての人々が
歎異抄にある「世々生々の父母兄弟なり」と言える
味わいが出てきます。
今まで受けてきたさまざまな「恩」を知り、「恩」を感じて、
生きることが出来るようになれば、「有り難い、もったいない、
おかげさま」の気持ちがわいてきて、譬え年齢を重ねても、
病気になっても、喜び多い人生を受け取れることが出来るのです。
南无阿弥陀仏は 、その力を育て育むはたらきがあり、
素晴らしい人生を
能力が開発されていくのです。
第1407回 内定通知
令和 2年 1月16日~
受験生にとっては、最後の追い込みの時期、また就職希望の
会社から採用内定の通知を待つ、就活中の人にとっても、
気の休まらない不安な厳しい季節と思います。
ある布教使さんが、こんなことをおっしゃっていました。
浄土真宗の教えは AKB48の教え、Aは阿弥陀如来、Kは必ず、
Bは、ブツ(仏)にするという48願の教えだと。
阿弥陀さまは、すべての人を必ず救う、お浄土に生まれさせ
仏にすると、はたらき続けておられます。
しかし、そのことを知らない人々は、自分が申し込んだ
訳ではなく、受験したわけでもないので、自分には
関わりないと、思い込み、阿弥陀さまの呼びかけに
気づかないでいるものです。
南无阿弥陀仏は お浄土へ生まれさせ仏にするぞとの
内定通知、合格通知なのです。
自分でエントリーしていない、申し込んでいないので、
まったく関係無いと思いがちですが、
仏さまが先手をうって、手配をしていただいているのです。
申し込んだ覚えはなくても、親たちや先祖が、我が子
我が孫を思って、ちゃんと申し込んでいてくれたのです。
南无阿弥陀仏は、もう間違いない心配いらない、試験に
合格しようが、不合格であろうが、就職が思い通りに
なろうがなるまいが、与えられたところで、思う存分に
力を出し切れば、それが一番良い方向に進むもの、
自分でやれることを、しっかりやったら、後は、
私にまかせておきなさいと、呼びかけておられるのです。
これからも沢山の悩み苦しみ、思い通りになること、
成らないこと、悔しいこと悲しいこと、さまざまな
苦難が待ち受けていますが、やがて命が終わるとき、
必ずお浄土へ迎え取って仏にする。
仏になったら、今度は自分のことより、多くの苦しむ
人々のためにはたらくのだ
人々の苦しみ悩みを、今生きている間に、十分に
体験しておけ、無駄なことは一つもない、逃げずに
隠れずに多くの経験を積んでおけと 呼びかけて
おられるのです。
会社からの内定通知が届くと、入社までの残された期間に、
語学を勉強することとか、運転免許を取得するのが
望ましいとか、会社の業務内容やサラリーマンとしての
基礎知識のテキスト等が送られてきて、必ず勉強して
おくようにと、入社までにやるべきことの指示がくるものです。
南无阿弥陀仏の内定通知を受け取ったと気づいたら、
お浄土へ生まれて仏になって活躍するのに必要な経験を
積み、お浄土へ向かって歩く道をお聴聞して確認して
いきたいものです。
いつ何時お浄土へ生まれても、大丈夫なように、今から
気をひきしめて生きていく、それが後生の一大事を知る
といわれることなのかもしれません。
もう自分は内定が決まった、合格が決まったと、のんびり
生活するのではなく、今やれることを、やるべきことを、
仏になって困らないように、精いっぱい仏さまの気持ちを
味わい、はげんで行きたいものです。
南无阿弥陀仏を口にし、耳に聞きながら、
第1406回 迷える者は道を問わず
令和2年 1月9日~
親鸞聖人の教えを大変喜ばれた西元宗助(1909 ~ 1992)先生が、
軍隊に召集され台湾におられた時のことです。
十数名の先頭に立って、町外れの熱帯植物園を目指して
歩いていましたが、どうしても目的地に着けないのです。
その時、若い兵隊の一人が、街角のタバコ屋のおばさんに道を
尋ねたそうです。
すると、おばさんは、親切に道順を教えてくれ、無事たどり着く
ことが出来たということです。
道を聞いた若い兵隊が、「迷える者は道を問わずやな」と笑った。
その若い兵隊に、この言葉を誰に教えてもらったのか尋ねたら
地べたに指で「迷者不問道」と書き、
「僕は田舎の小学校しか出ていない、知っている漢文はこれだけや、
高等小学校を卒業の日に、受け持ちの先生が言われた。
この中には、上の学校に進まず、実社会に出る者もいる。
諸君の将来をアレコレと想い、昨夜は眠ることが出来なかった。
諸君に一つ、卒業のはなむけの言葉として差し上げようと思う。」
といって黒板に大きく書かれたのがこの、迷える者は道を問わず、
の文字でした。
「よいか、この言葉を忘れないで、つねに謙虚に心をむなしうして、
分からないことは何事も、信頼のおける人々に問い尋ね、教えを
こうことが大切です。
このような心がけさえ持ち続ければ、実社会がそのまま生きた
本当の学校になります」と、言われたのです
と、目を輝かせながら、自慢げに、その若き兵隊が話してくれたのです。
この話を聞かれた西元先生は、知ったかぶりをして道を尋ねようと
しなかったご自分を大いに恥じ、小学校の先生の「迷える者は道を問わず」
という言葉に、深く心を打たれたとおっしゃっています。
私たち人間は、少しばかり知恵や知識が身についてくると、何もかも
分かったような顔をして、人に問い尋ねることをしなくなります。
はからい心が、驕慢心(おごり、たかぶり、自惚れ)が邪魔をするのです。
つまり、「迷える者」とは、そういった驕慢心に振り回され、
知ったかぶりをしている人のことを言うのでしょう。
なぜなら、自分は迷っていると気付けば、正しい道を問わずには
おれなくなるのに、迷っていることが分かっていないので道を
問おうとしないのです。
わずかばかりの知識をひけらかして、まじめに道を問い尋ねる
こともせず、迷いに迷いを重ねているのが、私たちなのです。
これは、仏法をお聞かせいただく場合も同じです。
親鸞聖人のお作りになった『正信念仏偈』には
邪見憍慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯
意訳すれば、お念仏の教えは、はからい心(おごり、たかぶり、
よこしまな心)を以ってしては、信じることは不可能である
ということですが、まさに心をむなしくしなければ、教えは
耳に届かないのです。
また、教えを聞くことで今一つ大事なことは、人の言うことを
ただ聞きさえすれば良いというものではないということです。
小学校の先生も、信頼のおける人に聞きなさいと念を押して
いるのです。
文明社会と言われながら、いっこうに迷信があとをたたないのも、
おかしげな宗教がはびこるのも、何が正しいのかという
見極めをせず、安易に人の言説を信じるところにあるのです。
何が正しくて正しくないか?
仏法を聞く上で、これが一番大事なことだと思います。
第1405回 南无阿弥陀仏は
令和2年 1月2日~
阿弥陀様とは どういうお方なのか、お浄土というのは
どういう世界なのか と言うことは、お釈迦さまが説かれたお経
『 大無量寿経 』の中に 詳しく述べられているのです。
『 大無量寿経 』が 説法となって、私に 浄土が 届いているわけです。
如来様の大慈・大悲をこめた 仏様の こころは、 言葉となって
私に
仏さまの世界が、お浄土の世界が はっきりと 出てくるのです。
お浄土なんて 分からない と言われますが、分からないから、教えが
言葉となって届き、その教えを聞いたら お浄土が 仏さまのこころが
目の当たりに 味わえるようになるのです。
その『大無量寿経 』のお言葉を 一口にまとめたのが「 南无阿弥陀仏 」
という お言葉なのです。「 南无阿弥陀仏 」という「 大行 」となって、
教えが 届いてくるのです。
この「 南无阿弥陀仏 」という言葉を 通して、私たちは阿弥陀様と
いつでも 触れているのです。いつでも 如来様に 出遇っているのです。
生きている間には、仏様に 遇うことが出来ないと 思っている方が
おられるでしょうが、生きている間に 遇わなければ いつ遇うのですか。
生きている間に 如来様に遇い、そして 浄土を 味わうのです。
その「 南无阿弥陀仏 」のお謂われを 詳しく述べられているのが、
「 大行 」の巻といわれる『 教行証文類 』の二巻目の「 行巻 」です。
その「 行 」によって、阿弥陀様が いますことを はっきりと確認させて、
南无阿弥陀仏の人が 間違いなく お浄土に 生まれて往くことも
確認させていただく 、 これを「 信心 」というのです。
この心は 如来さまの言葉に よって 開かれた こころの世界です。
仏様は 信心となって この私を支え、信心のお謂われが 私たちを
目覚めさせていく、これが 仏様の はたらきなのです。
この はたらきに、生きている間に 遇わせていただけ、そして真実の
証果、結果が出てくるのです。 それが 往生成仏ということです。
証とは 結果のことです。
「 南无阿弥陀仏 」という教えを聞き、その教えを、そのお言葉を
真実であると 受け容れて、お浄土を 味わいながら 生きていくことが
大切なのです。
そして 阿弥陀さまの ところへ生まれて往く、お浄土へ生まれて往く
その後は 人びとを救い、人びとを 目覚めさせる はたらきをさせて
いただく、今度は、救うはたらきができるのです。
それを 還相回向というのです。
他の人びとを 救う はたらきを 限りなく行うのです。
苦しむ人がいる
これが仏道というものなのです。
仏教とは、自分だけが 救われれば それで良いというものではなく、
みんなが 真実のお救いにあずかって、そして みんなが 幸せになって
くれるようにと、そういう活動が 出来るものにしていただくことが、
覚りを開くということです。人々を救い続けるわけです。
梯實圓師
第1404回 忙しいので
令和元年 12月26日~
「現代人の多くは、仏教とは自分に関係のないもの、
また生活に関係のないものと考えているのではないでしょうか。
ご法座の案内、法話へのおさそいをして気づいたことがあります。
それは、法話へのおさそいのことわり方が二通りあるということです。
一つは、「忙しいので、また次のときに参らせて頂きます」
というものであり、
二つには、「まだ若いので、もうすこし年をとりましたら
参らせて頂きます」と
多くの人たちは、
「仏教とは、ひまな人が聞くもの、お年寄に必要なもの」と、
無意識のうちに考えておられるということだと思います。
何度おさそいしても、「忙しいので」といわれる人に、
私は時に冗談のように「忙しくても死にますよ」というのです。
忙しいので勉強ができない
忙しいので手紙が書けない
忙しいので掃除ができない
成程
それじゃ多分忙しいので 死ねないだろう 〈「日々の糧」より〉
忙しすぎて、死に忘れたという人はただの一人もおりません。
みんな、あれもして、これもして、忙しい忙しいといいながら
一生を終わっていくのであります。
死に直面してはじめて、「自分は何のために汗水をながし、
何のために忙しい思いをしてきたのだろうか」と嘆いても
どうにもならないのです。
「忙」とは「心を亡している」という字です。
「心を亡している」とは、自分を見失っているということ。
忙しい忙しいで、一番大切なはずの自分を見失っていると
いうことが、「忙」ということであります。
あれをして、これをしてと 仕事に追いかけまわされて、
自分を見失ってしまいやすいお互いだからこそ、たとえわずかの
時間でも、自分の人生を考える場をもちたいものです。
自分の人生を考える、それが「法話」であります。
その場が「法座」であります。
蓮如上人は、このことについて、
仏法には、世間のひまを閥て、きくべし。世間の隙をあけて
法をきくべき様に思う事、浅間敷ことなり。仏法には
明日という事はあるまじき由の仰に候。 (蓮如上人御一代記聞書)
(仏法をきくには、世間の用事をする好い機会に、その用事を
やめてもきくようにせねばならない。
世間の用事をしてしまって、それから好い機会をつくって
仏法をきこうとおもうことはあさましいことである。
仏法をきくには、明日にのばすことはあるべきではない)
平均寿命を自分の寿命のように思って、「まだ私の寿命は何年ある」
といっておられる人があります。
平均寿命は決して私の寿命ではありません。
若くても死ぬのです。死んでからではまにあわない大切ことが
私たちにはあるはずです。
それはすべての生ある者にとっての永遠の課題である
「私は、この人生をどう生きたらよいのか」という問題であります。
永田文昌堂刊 人となれ仏となれ 藤田徹文師著
季刊せいてん116号参照
信心あらんひと むなしく生死に
「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」
讃えられた和讃の一首です。
「あひぬれば」は、漢字で書けば「遇」という字に
なります。
親鸞聖人はこれを、「『遇』は まうあふといふ。
まうあふと申すは、本願力を信ずるなり」と解釈され
るように、本願力を信ずる身になれば、ということです。
続いて、その結果を「むなしくすぐるひとぞなき」と
述べられるように人生を虚しく過ごす人がいなくなると
示されます。
そして、阿弥陀さまの功徳の海水に私たちの煩悩の
濁った水が溶け込めば、海水と濁った水の区別が
なくなり一つ味になると譬えられます。
篠崎九蔵という方がお念仏の教えを聴聞して
こられたなかで詠まれた詩があります。
「難有りを、下から読めば有り難い」。
苦難を何度も味わうことと有り難いと思えることは、
決して別々のものではない。
お念仏の教えに生かされる人にとって、苦難が苦難に
終始しないで、有り難いと受け止められる心が芽生え
ていくことを、この詩が教えてくれています。
私たちは何度も思いどおりにならないことに出会い、
苦しい目に遭わなければならないとき、愚痴・不平を
言いながら寂しく人生を終えていくのではなく、
何事も「お陰さま」「有り難い」と受け止めていく心が
できあがったならば、これほど頼もしく充実したものは
ありません。
「むなしく生死にとどまることなし」とは、
そのような人生を指し示した言葉であるといえましょう。
ブディストマガジン大乗 今月のことば、
『月々のことば』より抜粋
つづく
中央仏教学院 通信教育 入門課程 テキスト より
日本の知識人の多くは、宗教の問題になると「私はいっこうに無信心でして」と
言ってあいまいに笑っていますけれども、
という信仰のことですから、
と言って笑っているのと同じことでしょう。
なぜなら、何も頼むものがなくてひとりで棺桶の中に入る自分を誰も助けてはくれない。
死は怖くて仕方がないから、そういう自分の現実をごまかして死んでいく。
こういう心が地獄です。
そうすると現代人にも地獄は決してなくなったわけではありません。
蓮如上人は、如来さまを信じない人は三途の川をひとりで行くことになると、
『御文章』第一帖第十一通に書いておられ
かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふこと
あるべからず。されば死出の山路のすゑ、三塗の大河をばただひとりこ
そゆきなんずれ。 (『註釈版聖典』}一〇〇頁)
とあります。
こう教えられても、「死んだ後に山も河もあるものか」などと見当ちがいな
抗弁をしたりする。
しかし、たったひとりぼっちで、どこへも行くところがないという
お先真っ暗の心が、とりもなおさず地獄ということではありませんか。
地獄というのは、別に死後に空間的に実在する他界のことをいって
のではなくて、絶望的な自分の心をいっているわけです。
三途の川も、閻魔さまも、鬼も信じないと言うのですけれども、何も
られないという不安でお先真っ暗な心は地獄以外の何ものでもありません。
生前に自分がたよりにしていたものはことごとく自分をはなれ、自分を
裏切るわけです。
これさえあれば大丈夫と思っていたのに、こんなはずではなかったと思って
お棺の中に入る。
しかし、この自分は一体どこへ行くのかわからない。
仕方がないからそのことを自分にごまかして、何が何だかわからない
うちに人生を終わってしまう。
これが地獄でなくて何でしょうか。
だから、現代人にも地獄は依然としてあります。
死後の他界としての地獄ではなく、死ねば何もないという無の地獄です。
後生の一大事は、依然として永遠の真理であります。
これほどの真理はないということを、蓮如上人はおっしゃるのです。
われわれは、仏さまが教えてくださった生死の一大事という真理を、
耳をそばだてて聞かなければなりません。
それ以外にわれわれの救いはどこにもないのです。
宗教の問題というのは、人類の未来はどんなだろうとか、何千年後に
どんな宗教が出るかとか、そんなことではありません。
私たちの命は今夜終わるかもしれない。
人類の未来どころか、今日明日もわからない命を生きている、
この私というものの緊急問題なのです。
宗教は各人の今ここの問題をいうのです。
お棺の中には、平生有用だったものは一つも入っていません。
人間は何も頼るものがなく終わってゆく。
その孤独な私を捨てないとおっしゃってくださるものに出遇わなければ、
われわれは何のためにこの世にやってきたのか、わからないことになります。
どんなことがあっても、お前を捨てることはない。
お前がお前自身を捨てても、私はお前を捨てない。
こうおっしゃっているのが、阿弥陀さまのご本願です。
そのご本願の招喚の声を本当に聞いたら、私たちははじめて安らかになります。
召喚する真理 正像末和讃を読む 大峯顕著 p166
第1393回 世界宗教と民俗宗教
令和元年 10月10日~
世界宗教とは、仏教、キリスト教、イスラム教の三つを言います。
宗教には、これと別に民族宗教と言われるものがあります。
民族宗教と言われるものの本質は、多くが現世主義と現世利益です。
個人と所属する集団の幸福を目的としていますから、われわれの日々の生存が
幸せになるように祈ることが、あらゆる民族宗教に共通の目的です。
ところが今から約二千数百年前に、仏教をはじめとする世界宗教が
仏教やキリスト教の本質は、決して自分勝手な、この世の幸せを
祈ることではありません。
民族宗教の場合には、人間は 自分の外の自然との関係において考えられて
たとえば雨が降らずに飢饉が起これば、神々に雨乞いの祈りをする
外的環境にどう対処していくかという問題が民族宗教のすべてです。
けれどもお釈迦さまの教えはそうではありません。人間の苦しみの出てくる
外界にあるのではなく自分の内部にあるということの発見から、仏教
つまり世界は自分の外にだけあるのではなくて、自分の内面にもあります。
それまでの人類が知らなかった、このような内的宇宙というものに
ということをはっきり教えられたのが、お釈迦さまです。
お釈迦さまの覚りというのは、どこまでも自分の内へ入っていく徹底的な
内省の道の果です。
そしてついに苦しみの元が、自分の存在の奥底にある衝動的な執着心に
ということを発見された。
真っ暗な自己愛が苦悩の原因だったことの発見とともに、苦しみの元が断たれた。
苦しみの元を発見したら、苦しみの根本が断たれたことになります。
苦の元がわからないから迷っていたのです。それがわかったということは、
苦しみからの解放、解脱であり、大きな平安です。
これは決して神秘的なことでも、異常な神懸かりでもありません。
それまでの人類の誰も知らなかった、人間精神の一番深みに対して
初めて覚醒した現実的な経験であります。
ブッダになったということは、心の目が覚めたという意味です
それまでいろいろなことに迷っていたけれども、迷いの元が今わかった。
今思えば、私は我執にふり回され、真実が見えなかったのだ。
目が覚めてもう迷わなくなったという大きな平和を経験されたのです。
そうして、世界中の生きとし生けるものはみな光かがやく仏性を持って
いるのだといわれた。
仏教という世界宗教は、お釈迦さまのこの覚りの経験から生まれたのです。
阿弥陀の本願にまかせる生きとし生ける衆生はことごとく救われて
仏に成
心境のなか
弥陀の本願や往生浄土はお釈迦さまの自覚の内容です。
親鸞聖人はこの真理に直行され、お釈迦さまがこの世にお出ましになった
ゆえんは、ただ弥陀の本願を説くためであったとおっしゃっています。
これは逆に言えば、お釈迦さまの説法が真理であるのは、阿弥陀さまの
本願が真理であるからだということを意味します。
だから、浄土真宗というのは特別な人々が信奉する宗派の名称で
はないのであって、宇宙の語りを聞いたお釈迦様の仏教の根本精神だ
ということをいわれているのです。
招喚する真理 正像末和讃を読む 大峯顕著 p93
浄土の哲学 高僧和讚を読む上 大峯顯著
電話法話一覧表へ (平成9年)~
掲載者 妙念寺住職 藤本 誠
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