第1742回 無宗教でなく自分教

 令和8年 6月18日~

 お寺の法座によくお参りいただく方、まったくご縁の無い方とありますが、
年配の方がご往生なさると、段々と参拝者が少なくなってきたように感じます。
ネットで調べてみると、キリスト教やイスラム教の方々は、
人間を超えた力 はたらきがあることを信じる方が多く、
この世だけではなく、いのちが終わって、次の世界があると、
考える人が多いようです。

 仏教は 因果、原因と結果、物ごとが起こる原因となるものを、
因といい、それによって引き起こされた結果 果があると説きますが、
自分が作った原因が、自分に返ってくるのは、この世だけであって、
いのち終われば、もうすべて関係無くなると考えている人がどうも多いようです。

 ある調査を見ていますと、あの世があると信じている日本人は3割程度
そんなものはないと思っている人も3割程度、残りの4割は 分からないと
答えているようです。
本堂にお参りの方が ご門徒の 2~3割程度と見れば、次の世を信じる
人の比率と近い感じもします。

 多くの日本人が、自分は無宗教、宗教を持たないと認識しているようですが
お正月は神社で春詣、お盆にはお墓参りと、これらは宗教という感覚は
無いようです。
「私は無宗教者である」と答える人のことを、宗教を持たないのでは無く
「自我教(自分教)」の信者といえるのではないかと教えて
くだる方がありました。

「自我教」=自己中心の価値観で、その行動を決めていくということです。
それぞれ個性があるので、多種多様なように見えますが、仏教でいう
煩悩をモノサシにしている点では、共通していると言えましょう。
すべてを自分の都合の良し・悪し、損・得、快・不快、好き・嫌い、
役に立つ・立たない等という価値基準で判断し、行動しているようです。

 メリットあるものだけを求め、デメリットなものは
遠ざけ、排除する、煩悩に振り回されるのが自我教、自分教の正体でしょう。
これは、どうも浄土真宗のみ教えに出遇う前の姿であるようです。

 お念仏のみ教えに遇うことで、南無阿弥陀仏を口にする
生活を始めることで、親鸞聖人が明かされた念仏の教えを、聞かせて
いただくことで、それが自分教であることに 気づかされるのです。

 私の願いばかりではなく、仏さまから私が願われている、仏の呼び声を
聞くことで、自分の煩悩に気づかされていくことが出来るのです。
日頃のお聴聞、お仏壇へのお参り(勤行)、日々のお念仏の相続によって、
次第に阿弥陀如来の本願が、この私に向けて誓われたもので、いつの日か、
その念仏が阿弥陀如来の私への喚び声と聞こえてくるのだと思います。
まさに、仏さまの心が私に届き、仏に念ぜられていると感じるときがあるのです。
そのような仏心に対する「めざめ」体験を「信心」というのでしょう。