第1733回 火中の蓮華

 令和8年 4月16日~

 巡番報恩講にお参りし、竹藪の見える控え室で、出勤のために
着替えながら、一つの額が目に入りました。
三文字で、真ん中は 「中」という文字のようですが、最初と最後の字が
まったく読めません。

三字目は 「逢う」ではないかとの声が聞こえます、雲の中 霧の中、
泥の中、でも、逢うならば、「遇う」の字だろうから、そうは
見えないなあ・・・・・。


 近づいて覗き込んだ人が 仏骨と 落款(らっかん)が押してある、
山本仏骨和上の言葉でしょうね。
三字目は 「蓮」ではないかな。
それなら、最初は泥だろうが、そうは見えないと、言いながら、
時間が来て本堂へ向かいました。

 帰って、調べてみると 仏骨和上には、「火中の蓮華」という本があり、
維摩経にある【火中生蓮】のことのようです。

 蓮の花は、高原陸地の綺麗な場所では咲かず、
汚く湿った泥田の中で蓮華が花開くという言葉は有名ですが、
これも維摩経の中にある言葉です。

火の中から蓮の花が生まれることは あり得ないことですが、
それと同じく、罪悪の地獄行きの凡夫[死ぬまで煩悩から
離れられないもの]の口から、南無阿弥陀仏の仏さまが出てくださる、
あり得ないことが
起こっている。
それがお念仏である、こんな不思議で あり得ないことに

出会えたとの喜びのことばであろうと味わいます。

「まあ、どこにおっても、お慈悲の中だからのう」との言葉は
ご往生直前、病床での仏骨和上のお言葉だったといいます。
お念仏に遇えた人は いつでも、どこでも、何があっても
お慈悲の中との喜びのお味わいでしょう。

一昨年の、法語カレンダーには、山本仏骨和上の言葉
「仏さまの光に照されて 私の心に明りがつく」と
ありました。

 親鸞聖人は、信心を「遇(あう)」とか
「聞(きく)」という言葉で顕されていますが、
信心ということは、仏さまの光に照らされて、私の心に明かりが
つくことだというように味わうと、一ばん有難いんですよ。と
おっやっていたといいます。

 阿弥陀さまの光が私に届いていただいていることに気づくことを
「遇う」「聞く」という言葉で表しておられ、そのことによって
私の心に明かりがともる、ということになるのです。

煩悩いっぱい 火宅無常の毎日の中に 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
のお念仏に遇えたことで、明るい未来と、生き甲斐、ゆるがない安心を
いただくことが出来たことを、なんと有り難いことかと、味わわせて
いただいています。

火の中に蓮華が咲くことなど、あり得ないことですが、それと
同じようなことが、南無阿弥陀仏を口にする私には、すでに起こって
いるのです。

 われ称え われ聞くなれど 南無阿弥陀 つれてゆくぞの 親のよびごえ

 が、届いているのです。