第1729回 安分

 令和8年 3月19日~

お彼岸の前後に 各地で巡番報恩講が勤まります。
ご縁のお寺から案内をいただき、有明海に近いお寺にお参りし、
あまりにも多い出勤の法中さんに、控え室はいっぱい、
床の間のすぐ近くにカバンを置き、着替えをしましたが、
親鸞聖人直筆の教行信証の総序が 大きく拡大して飾ってあり、
出入りする鴨居の上には、二つの文字が書かれた額が掲げてありました。

 大胆に崩して書かれており、その字がよく読めません。
一つは、安の字のようですし、次は 一筆で三つ 点というか
筋が引かれており、安心ではないかな、どなたか教えてくださいと
眺めていました。

 それを聞いていた方が、御住職に聞いたら、安分だと言うことですと
教えていただきました。
「安分」という言葉は、浄土真宗ではあまり馴染みのない言葉だなあと、
思いながら、帰って調べてみました。

「安分」とは、自分の置かれた状況を受け入れ、多くを貪らないこと。

知足安分
現状が自分に見合ったものと捉える。
不満を抱かず、心穏やかに過ごす。
苦しみは欲から生まれるため、足るを知ることが大切。
今を認め、自分の役割を果たす。
この「安分」の考え方は、臨済宗の教えとして説かれているようですが、
浄土真宗の教えにも通じるところがあります。

 浄土真宗では、阿弥陀如来の本願によって救われるという
「他力本願」の教え、人間の努力ではなく、仏さまのはたらきを
基盤としています。
自分の力ではどうすることもできない煩悩を抱えた
存在であることを認め、阿弥陀如来にすべてをお任せする中で、
心安らかな境地に至ることを目指すものです。

 阿弥陀如来が「そのままのあなたを、絶対に見捨てない。
必ず最高の喜びの世界に導くから、安心して任せなさい」と
呼びかけていただいていると説かれています。

 阿弥陀如来が願い、はたらきかけておられることを信じて
「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えることで、安心を得られ、
阿弥陀如来の慈悲に身をゆだれることは、「安分」の考え方と
共通するのだろうと味わっています。