第1691回 尊いご縁で
 
 令和7年 6月26日~

 いろいろの価値観や宗教がありますが、他力念仏の教えほど
むずかしく、理解しがたい教えはないだろうと、ある先生は 
お話くださいました。

 子どもの頃から、努力こそが大事で ひとに頼らず自立することを
教え込まれて育てられ 今にいたっています。
その私が、いま、お念仏をして 他力の教えに出会えたことを
不思議とも、大変なことだととも思ってはいませんが、
これほど大変で 有り難いことはないのだと お話いただきました。

 お念仏して お浄土に往生すると聞くと、ほとんどの人は
自分の努力で その努力の結果として お浄土へ生まれることが
出来るのだと 思い込んでいることでしょう。

 ところが、自分の努力で 生まれる浄土は 方便化土の浄土、
疑城胎宮といわれ、お浄土に生まれても 蓮の花に
つつまれて、あたかも母親の体内にあるように、五百年の間、
仏に会わず、法を聞くことの出来ない方便の浄土に生まれると
いうのです。

『ご和讃』の初めに「冠頭讃」という和讃が二首ありますが
 その一首目に

  弥陀の名号となへつつ   信心まことにうるひとは
  憶念の心つねにして  仏恩報ずるおもひあり
                      (「註釈版聖典」五五五頁)

 阿弥陀如来の名号を称えながら、信心をまことに得た人は
「憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」、
「憶念の心」というのは、いつまでも憶えていて、忘れないという心です。
いつまでも憶えていて忘れない……、そういう心が常に続いていく。
そして、それがそのまま「仏恩報ずるおもひ」になっていくと。

 二首目は
   誓願不思議をうたがひて 御名を称する往生は
   宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまふ」

 浄土真宗の信心は、疑蓋無雑、つまり少しの疑いもないもの。
それを疑うと言うことは、自力の念仏になってしまう。
御名とは名号、南無阿弥陀仏のこと。
弥陀の本願を疑いながら、少しでも功徳を積もうとする、自力の念仏者は、
たとえ往生したとしても、その浄土は化土である宮殿の中に、五百年留まり
仏になることは出来ないと、大無量寿経には説かれています。

 出家も出来ない 修行も出来ないこの私のことを 心配して
阿弥陀さまが、先にご苦労いただいて、南無阿弥陀仏を口にして
生きているものは 一人も漏らさずお浄土へ生まれさせ 仏にすると
はたらき続けておられるという お釈迦さまの教えを 弥陀の本願を
そのまま疑いなく、報恩の南無阿弥陀仏の生活を送らせていただくのです。

 親も祖父母も 一緒に南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と
呼びかけていただいている、そのお陰で出会えたのだろうと味わい 
この尊い有り難い ご縁をいただいたことを喜び、
報恩のお念仏の生活を送らせいただきたいものです。

          


           私も一言(伝言板)