第1688回 言えば 良かった

 令和7年 6月5日

 七日七日の中陰のお勤めの時に お嬢さんが 仰いました。
「そのうち、そのうちと 思っていたのに あまりにも急なことで
言葉を交わす間も無く別れ、一言 言っておけば 良かったと 
悔やまれます」と。

 お母さんを若くして亡くし、お父さんに育てられたお嬢さんでしたが、
そのお父さんが突然に、息を引き取られ、お礼も別れの言葉を交わすことが
出来なかったことを残念に思う言葉なのでしょう。

 若さも健康も親も 無くして、はじめてその有り難さに気づくものです。
若いときには その有り難さなど、まったく感じることはありません、
若さが むしろ悩みや苦しみの種だったりしますが、少し老いを
感じはじめる時、若いことの有り難さに 気付かされるものです。

 健康も 病気になって その有り難さに気づくもの、
同じように、親が生きている間は 当たり前で、時にはやっかいな存在ですが
いざ亡くしてしまうと、はじめて、その存在の大きさ、有り難さに
気付くものです。
でも 気づいた時は、もう遅い、無くした後のことです。

 親が元気な時に、生きて居る間に「本当にありがとう、迷惑かけたね」
と、一言 お礼をいって置けば 良かったと、悔やまれて
ならないものです。

 私たちが、持っている科学的な知識、価値観では、 
いのちが終われば、すべてが無くなってしまうというもの。
別れれば、もう永遠に会えなくなると 思っています。
しかし、お釈迦さまが説いていただている教え 仏教では
この世がすべてではなく、いのち終わっても 生まれて往く世界が
あると、あります。

 自分の行いによって、その行き先は決まるといいますが、ほとんどの人は
多くの人を苦しませ、悩ませたその報いで、苦しみの世界 地獄へ
いくことになるといいます。
しかし、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と阿弥陀如来のはたらき、
「必ず救う お浄土へ生まれさせ 仏にする」との はたらきかけに
気付いた人は、
 一人残らず、お浄土へ生まれ、仏となって 
お釈迦さまのように
 人々を救う はたらきをするのだと、説かれています。

 ですから、お寺にお参りになり、阿弥陀さまのお話をよく聞いて
いただいていた お父様は 間違いなくお浄土へ生まれ、仏さまとなって
今もう はたらき掛けていただいていることでしょう。

「心配いらない、父さんは お浄土に生まれて仏として 活躍しているよ。
おまえの頑張りもちゃんと見ているよ。 どうか
今 自分で出来る事を、精一杯頑張りなさい、応援しているよ」と。

そのはたらきかけを 感じ取るには 仏さまのお話を、仏さまの
はたらきを、お聴聞することで 少しずつ気付かされていくものです。
その仏さまのはたらきに、気付くことが出来たならば 
お父さまとは、悲しい永遠の別れではなく、いつも一緒に
いていただく 有り難い存在であると感じられてくるものです。

 そのことに、気付けば 有り難い人生に 気付かなければ 悲しく
悔しい、ああすれば良かった、こうすれば良かったと、
取り返すことのできない、過去にこだわる、後悔の毎日となるものです。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 に出会えば、
大切な方が、いまも一緒にいていただく、明るい未来が 
喜びの毎日が、訪れてくるものです。

          


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