1886(明治19)年、日本はジュネーブ条約(赤十字条約)に加入。翌年、博愛社は日本赤十字社に改称され、国際赤十字に加盟、常民は日本赤十字社の初代社長に就任しました。日本赤十字社は、その後、磐梯山噴火の災害救護、日清戦争の戦時救護など、さまざまな場で活躍を展開、1899(明治32)年には病院船博愛丸・弘済丸を建造しました。1902(明治35)年10月、日本赤十字社創立25周年式典が盛大に挙行され、常民は最高の栄誉である名誉社員に推薦されました。その2ヵ月後、常民は人生の大舞台の終わりを見届けるかのように、80年の生涯の幕を静かに閉じました。


 
 

 
  博愛ノ主旨ハ人ノ至誠性ニ基クノ説   ジュネーブ条約加入について政府から博愛社宛ての通知書

1882(明治15)年の博愛社社員総会での常民の演説を筆録したもの。常民の理想とする文明社会と赤十字事業への思いが凝縮されている。

 

博愛社の働きかけにより日本はジュネーブ条約へ加入。博愛社も日本赤十字社と改称し、国際組織としての仲間入りを果たした。

 

  印鑑
  日本赤十字社社紋制定決裁書   印鑑

日本赤十字社の社紋は、社章の図柄を迷っていた常民に、昭憲皇太后が簪(かんざし)の絵柄(桐竹鳳凰)を示して決定されたという逸話が残されている。

 

常民が文書決済の押印に使用した象牙彫りの印鑑。

 

 
  キング付録明治大正昭和大絵巻  

国際赤十字への日本の加盟は、1887(明治20)年を代表する出来事として、雑誌キング付録の絵入年表にも取り上げられた。

 

山口亮橘宛の感謝状。亮橘は佐賀近代画壇の中心人物である洋画家山口亮一の養父。この書状の日付の3日後、常民は永眠した。

 

 
  渋谷の日本赤十字本館   赤十字看護婦制服

1886(明治19)年、看護婦養成の実習の場として博愛社病院が開設され、その後、日本赤十字社病院となり、移転拡張しながら病院事業を発展させていった。

 

明治期の赤十字看護婦の制服。


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