わが青春の那覇の思い出
ー昭和元年から20年頃の那覇の情景ー

舟帆
(木場仁吉さま:福島町在住)

那覇の一日

「ぐるくん買んちようらに(ぐるくん買っ下さい)」の一声で那覇の一日が始まります。ぐるくんは鯵、鯖の類です。とても美味しい魚です。次に「スルルングワ」があります。きびなごのことです。しかし、きびなごは鰹の餌になるので、県条令で捕獲禁止されているのです。ですから竹籠の底にかくしてあるのです。警察官が見て見ぬふりです。

魚以外の品物を買いにいくときは、公設市場に行きます。市内十銭で行けます。車屋さんは、一人車に乗せれば、一日生活ができます。沖縄そば五銭、ごはん(どんぶりめし)五銭です。十銭で一日の暮らしができます。山形屋、学校の婦兄会などに行くときでも「くるま」に乗ります。タクシーはありません。

那覇の人々は人情味豊かで暮らし安い街です。那覇んちよう 那覇ばいばい 首里んちよう 首里じゅり(那覇の人はバラバラ、首里ん人は志をもつ人がまとまる)という意味です。首里出身の老人は大てい、士族出身で礼儀正しい方々です。カンプーのさし込み方によって士族と平民との違いがあります。友人に首里出身の金城貫哲君、(現在、大阪市在住)は入学以来の特待生で(平均九五点以上)年令は二年先輩で陸軍中尉で復員してきました。赤嶺賀昌君、新垣賀昌君など近所所に居た友人で盆にもなると、お墓参りに私を誘って連れて行ってくれます。

ごちそうがたくさん出ます。豚のソーキぼねの煮物、サーターアンギゴーヤのちゃんぽん、ナ-ベ-ラ(へちま)のいためもの、食べ放題です。盆が来る日が楽しくて懐しい限りです。学校では方言が禁止されていました。先生が近くに居れば標準語で話しますが、誰もいないときは方言で話します。

野球大会、スポーツ大会など、奥の山公園で行われます。試合に勝っても負けても隊列を正し街中をねり歩きます。(でいご花咲くうるま島)〜校歌、(あけぼの清きみんなみの)〜市歌を交互にうたいながら途中、山形屋前、市役所前、上のくら上り口、波の上高第一鳥居前で踊りの上手な生徒を中心に三三八表示の踊りを披露します。警察官が来て交通整理をしてくれます。青春を謳歌するよき時代でした。

二年生以上の生徒の日常は軍事教練に明け暮れました。兵器室には九九式小銃が保管してあり、毎日手入れします。機関銃もあります。毎日これをかついで泊りの浄水場付近をかけ足で歩むことが日課です。学校には将校の陸軍中尉が配属されていました。校門に入ってくるとき生徒の誰かが中尉殿を見かけたとき校庭全体に響くような大きな声で「敬礼」とさけぶのです。一中、二中、工業高校、水産工業、師範学校など他校と一緒に軍事教練をやることもあります。靴は一回配給があったら二度と配給はありません。破れたときは自分で修理します。教練のときだけ使用します。地下足袋です。日常は教科書と一緒にフロシキで包み手に持って歩きます。

私は部活動は野球部でしたから家に帰るときはボールを修理するため、家へ持って帰ります。それが日課でした。野球の練習は米商共同組合と共同でした。沖縄水産の裁監督等ははるか年齢が離れた後輩です。十二時頃になると泊り港と学校との中間に(夫婦岩)ミートージと言って岩がありました。そこらを中心としてよく遊びました。

特種な学科として支那語、広告学、東洋の産物学、空手などがありました。先生に対しては絶対服従でした。三歩下って師の影をふまずの一念でした。進学は一中、二中、三中(徳田球一の母校)が海兵、陸士、商業学校は高商進学が目立ちました。

沖縄の食事は栄養学的に完璧だなどとその道の先生が申しますが、皆間違っています。 私に言わせると
一、味つけが塩分がうすい どんな料理でも塩分がうすいこと これが第一に上げられる
二、こんぶをたくさん食べること。支那へ輸出するための、集積所なのでいたるところにこんぶがあります。弁当代りにこんぶを食べてきました。元気なのも正にこんぶのおかげです。
三、ゴーヤー ナーベーラー(へちま)ぶた肉をよく食べます。
これがよいと思われるものを順序よく書いてみました。栄養的にもすばらしいと存じます。

那覇のあちらこちらにdo(御殿)があります。首里の尚家の分家の方々の家です。立派な建物で皆の尊敬の的です。友人としてうどんの友達がいました。今頃どうなっているのやら前期試験、中間試験のとき夜間は 電気がつきませんので教科書をもって夜、屋外に出ます。役所前、山形屋前、波の上第一鳥井前に学生が集まります。漢文、支那語など暗記しました。

思い出すままに那覇の一日の出来事を書いて見ました。又、この次詳しい思出を書こうと存じます。先生 少しでも那覇、首里のことを思い出して下さい。
  住みよい、懐かしい町 青春時代を過ごした町
  首里 那覇に憧れながら  
        ペンを置きます。
     第二回目を又書きます。
                       舟帆

第二部

那覇市垣の花町で火事がありました。沖縄始まって以来の火災です。昭和十二三年頃の出来事です。石油タンクが爆発したのです。明治橋は通行止めで対岸の第一桟橋第二桟橋から見物しました。三日間位燃え続けたようです。

垣の花町は沖縄水産校が海岸近くに建つていました。貝が沢山とれるところでした そのとなりはヤラジャ-(昔の城のあと)があって舟の見送りに多くの市民が訪れるところでした。

学校の交友も大勢居ました。平良良一、佐久間朝秀、平良正男、我那覇長昌など学業優秀な生徒ばかりでした。近くに九十八メ-トルの無線塔が建っており学友達はその崩壊に備えて動員され学校にはその間来なくなりました。垣の花は天然水が湧き出るところです。水道は普及されているのにかかわらず伝馬船に積み込んで那覇市内に売りに出掛けます。水道水よりはるかに美味しいのです一つの風物誌ですね。

垣の花を通り過ぎて南部に行くと小禄飛行場があります。海軍所属の飛行場が厳重な警戒のもとにあります。昭和十二三年頃だったと思いますが、女流飛行士が飛行機からとびおりるサ-カス間がいのことをやって人を集め、那覇市内の学校生徒は全員見学に出掛けました。その後は機関銃で固く守られ民間人は立入り禁止となりました。その時の飛行場建設には今も活躍している国場組という沖縄一の会社があります。

その南部は糸満です 項を改めて書くことにしましょう。
対岸の桟橋は桟橋と言っても橋はなく舟の接岸するところです。一万頓クラスの船舶もつきました。浮島丸 波乃上丸いずれも大阪商船株式会社の商船です。那覇港は近代的な鋼鉄船ばかりでなく三重城(みいずすく)の裏側には萩炭を積んだヤんバル舟が入港します。風に逆らって反対に歩くように進んで来る。一種の珍しい舟で見物人も集まります。

このような情緒ある風景がまだ残っていました。だから、那覇が大好きなんです。この一帯は遠堂と呼び那覇市電の起点です。安里駅あたりまで交ったようです。遠堂は風ゆる倉庫があり第一報で申しましたこんぶ等が沢山あります。又沖縄名産の黒砂糖がふんだんにあります。倉庫番も居りません 遠堂に行く時は弁当はいりません。五寸くぎを一つ持って行きます。黒砂糖だるにななめにくぎを打ち最後に横に打って砂糖のかたまりがドカットとれます。それにダシザコがそしてこんぶがあります。これらでお腹一杯になります。懐かしいよき時代でしたね。

十六年頃になると長距離砲など軍事兵器が送られてきました一般人は通れなくなりました。部隊も到着しました。ロシヤと不可浸条約を締結してから後、ロシア軍がノモンハンに攻撃して来ないと見るや関東部隊の精栄が六十万人那覇に集結しました(この兵隊さん達は全員戦士)若い見習士官あり年を取りすぎたような小尉殿。中尉殿など皆那覇から安里駅の珠部本部あたりまで行軍してきました。ちぶや辺りまで行列は進みその行く先も知らずこれだけの兵隊がおれば日本は勝つんだと信じました。

その後からです 安里駅近く県立第一高女の女生徒が看護婦任務につき、あまたの女学生は姫ゆりの塔にまつられています。(大方の生徒は手榴弾自殺)

遠堂から町部に入ると西新町です。真楽座と言う芝居小屋がありにぎわいました。学友には中田明(宮崎出身)君が住んで居ました。有村自転車店、島袋フロ屋などありました。西新町、西日本町で一番懐かしいのは、平和館(映画館)の客引きマイクの賑やかさです。午後一時開始、午後六時開始で四時間、五時間位ありました。何しろ娯楽の少ない時なので、映画館はいつでも大入満員です。通常十銭で三本立てです。旭館という館もありました。どちらもいつでも満員です。客引きのレコ-ドが西本町西新町上の蔵遠堂の一部 山形屋付近まで鳴りひびきます。

西本町にはさんご座(芝居小屋)やんぱる方面に行くバスの出発店がありました。バスは木炭バスです。上り坂では客も車から降りて後押ししなければなりません。武徳殿ができる前までは、広い建物と言えばさんご座です。ここで、鹿児島商業の柔道部と沖縄中学校との対抗試合が行われました。亡くなりました告松七段も来ていました。さんご座ではごさ丸(尚家の忠臣)ぼたんの花(奥山のぼたん)などが上演されました。芝居の席上で座長の挨拶があります。標準語と沖縄語のチャンポンで

『本日はへえべえとから めんそうち うたびみそうち 有難うございます』
  本日は早くからおいで下さいまして有難うございます』
遠堂西新町 西本町 垣の花の一帯を書きました。この次はまた 市の中心部とうつります。
                             舟 帆

 

第三部

西新町の海岸は石ころだらけで遊び場はありません。この辺り一帯をヤラジャ-と呼ぶところです。若いわたし達はよく行きました。貝などは生息せずシチャラン(サザエの子)一杯生息していました。それを取ってその場でつぼ焼きにするのです。ヤラジャ-をつき通すと波の上宮の下のほら穴に出ます。

市の中央近くになると、京都の西本願寺の末寺があります。お釈迦様祭りには賑わいました。その隣は第一部で書きました珊瑚座があります上の倉の登り口には三角そば屋、新星堂書店、野村洋服店、安仁屋、時計店、床屋などがあり那覇第二の中心地でした。上の倉は大病院が集まっているところです。そこを上り終わると波の上宮第一鳥井前の大広場に出ます。

西日本町は映画館中心の繁華街です。ライオンカフエ- とらや饅頭店おいなりさんなどがありそれに呼応して客呼びのレコ-ドの響き賑やかなところでした。中等学校生は定期的に映画見学を許可され、六時間目の終わりになると黒板に級長が本日映画許可と書かれ急いで映画館にでかけました。西本町は海岸に面したところは殆ど、米屋さん、こんぶやさんの御屋です。

それから中心部に入ると山形屋前です。一階建てですが丸山号とともに那覇第一の百貨店です。鹿児島市の山形屋支店です。学友の金城武雄君が監査役をしていました。近くに丹下食料品店、川並金物店、仲んだかり呉服店などがありました。同級生がそこの長男、次男なので、買い物の時は友達を呼び出して買うのです。半額位で買うことができました。そこを南部に行くと有名な那覇市場です。

野球部の先輩、同級の山下君(高知銀行那覇支店長)屋宣君(鹿児島連隊で一緒)田村君(六年生より海軍飛行練習生)以上は商店を中心とする繁華街です。久米町は『うちがねく』と呼ばれ、でいごの木の繁った小山です。中央に勧業銀行のテニスコ-トがあります。那覇にはそこだけにあるのです。コ-トで中学大会などそこで行われます。コ-トのうえの部分にでいごのきの親分みたいな大木がありその横に当間市長の住宅があります。又、テニスコ-トの外県立図書館があります。数学、物理科学などそこで勉強しました。

当間市長宅と右に折れると久米町本通り、久茂地、県庁通りに続きますが、その右側(泉崎橋のまむかい)に有名な孔子びょう(チ-シンブ-)がありよく遊びに出掛けました。この近くに新垣菓子店(同級生あり)があり現在首里錠でマルボ-ロ(たんなふくる-)店を出店しているそうです。久茂地町の大道りを通ればお成り橋です。今上陛下が出始め式に止のお通りになった橋だそうです)

それから那覇警察、沖縄県庁、武徳殿などがあり左へ行くと首里、安里方面へ行きます。現在国際通りと言っているあたりです。よくその辺は朝散歩して歩きました。なつかしいところですね。近所の川には手長えびがたくさんとれました。焼いて食べるととても美味しい味です。首里叉はしきな園から流れているくる川です。この付近は山形屋の荘園がありました。さとうきび、なす、きゃべつなど貰いました。一高女がすぐそこです。沖縄県庁公会堂まで徴兵検査がありました。国防婦人会、愛国婦人会、市の青年団女子部など沢山の人々がお茶入りなど接待に来ていました。松田小将閣下が徴兵官です。

当時中等学校以上出は数学の教科試験がありました。『敵の潜水艦が右から角度何度、何ノットで進んでいる。いつ大砲を打ったらよいか、三角関数のサインコサインの試験がありました。私は県庁職員でしたので、小禄飛行場、嘉手納飛行場などへ月一回出張を命じられ人夫達の監督にかりだされました。だから、飛行場のことは大抵のことは知っています。嘉手納飛行場以外にも飛行機が飛び立つだけの飛行場もつくりました。飛行場を行ったり来たりしたおかげで付近の地理も頭にきざみこむことができました。

金武の自然水、普天間のほら穴、満座毛、大山のももなど一般の人は知らないことでも何でも知るようになりました。名護方面は一回給料を持参したのみではっきりと憶えていません。名護市にある 第三中学校は、花が咲き乱れまるで女学校のように きれいでした。礼儀正しくすがすがしい感じがしました。

那覇でスポ-ツ大会などあるときは、全校生徒、徒歩で那覇まで強行 するんだそうです。第三中は第一部で書いた通り徳田球一さんの母港です。名護市の近くに大山という部落があります。大山むむ(もも)のさんちです。腹一杯食べました。伊江島は有名な伊江男爵の出身地です。

ごさ丸は第一部で書いた通り尚家第一の中臣です。尚家は巧言に乗せられごさ丸をやみ打ちにしました。その子が南山城に逃げのび生長し尚家に謁見しその罪を許され中城 に返りさきました。琉球史の勉強のとき教わったものです。名護市以外は行ったことがありません。ヤンバルクイナなど貴重な動物がいるそうです。名護市のかつう岳からは那覇の市街地が見渡せます。

首里、しきな園、与那原方面

首里に行ったときは必ず観音堂に先にお参りします。首里錠の右手には、立派な墓が並んでいます。その後は記念運動公園です。首里の街は石畳の道です。坂道ばかりで長崎市の通りに似ています。しきな園は尚家の保養地です。ここで、昔ながらの言い伝えがあります。しきな園の一室のところに一望を見渡せる場所があります。中国、徳川家の使いの者が来たときそこへ招待したそうです。何故かと言うと、どこを向いても山しか見えず沖縄はこんなに広いところだと宣伝したんだそうです。与那原は、漢郡小将閣下が連合艦隊を引き連れてやって来たところです。

珍話があります。或る親子の会話です。親は少尉が上で大尉が下位だと思っていたらしく、子供達が曰く『漢郡さん(若いころ)はなあ(もう)大尉になられたそうな』と申したら親が『いえ、なあ、いや-や(お前)(これこれ我が子よ)なの(もう)小慰やみせししや、ごぶり-なもの言いかたし(ご無礼な)もの言い方し』としかりつけたそうです。

第四部は、那覇市内の天妃町、泉崎町、久茂街、泊り町、市役所前若狭町、かたばる(製塩町)市内の学校名、県内の中等学校名などを書きます。全部で第五部で終了予定です 
                                     舟 帆

遠堂は、市電の起点と言うことは前途のとおりですが、第二浅減から一番目のカーブにかけて、一直線の道路で大綱引きが行われます。道路の両側とも殆ど米問屋です。その隣が山形屋通りです。

右側は商工会議所、百四十七銀行、観業銀行です。市電はそのまん中を通り、市役所前、久米本通り、波の上宮方面へと走ります。市役所を右へ曲がれば国場川、那覇駅通りに出ます。

さて、左の側はどうなるのでしょう。まず、波の上宮を説明します。第一鳥井を潜って左へ行けば、左右に無数の石灯籠が立っています。第二鳥井まで約五百米です。左は辻町街です。当時、私どもは未成年でしたから辻町のことは何も書けません。右側は真言宗のお寺などが立っています。

本宮の右側を通りすぎて広場に出れば、公設のプールがあります。公設と言ってもお粗末なもので、満潮の時フタを閉めて満杯にする二十五米プールです。

水泳競技は那覇商業が断然強く、二番目が水産校です。隣の旭ヶ岡に登り、応援したものです。

波の上宮を通り過ぎると若狭町です。那覇商校の校舎が聳えています。右側のカタバル(塩田)を通り過ぎると、泊り橋に出ます。左は泊りの町、右は祟元寺に行かれます。今では立派な港になっていることでしょう。

これで那覇の東側は終了です。那覇駅から出発しましょう。那覇駅と言えば、まず国場川を書き落としてはなりません。川幅が約1,000米位ある川です。那覇港の一部でもあるのです。奥武山公園を中にして明治橋が東と南にかけられています。与那原に行くには、まだん橋、一日橋を通ります。一日橋はその昔、建設の時少女を生贄(いけにえ)にして完成したのだそうです。夜はあまり人通りがなくなるのです。

少し後戻りしてみましょう。那覇の中心は、市役所のとう(かくすのとう)、中央郵便局、山形屋、圓山号のあたりが一番賑やかです。泉崎橋は石を積み上げた目鏡橋です。その近くにチーシンブーがあります。有名な孔子廟(びょう)があります。第一中学校、第二中学校は首里と那覇にありました。第三中学校は名護市にありました。前回も話しましたが校庭には、いろいろな花が植えてあり、まるで女学校みたいな奇麗な学校でした。

師範学校、工業学校は首里市、水産学校、第一高女、第二校女、家政女学校、海星中学校があり、第一高女の女生徒はひめゆりの塔に祭られて、第二高等女学校は、愛馬行進曲の作曲家で音楽教師(新垣正一氏)が一当当先された感大なお祝がありました。その後、校舎が大火し隣の松山小学校へ飛火するすさまじさでした。天妃小、那覇尋常小、那覇尋常高等小、泊小、垣の花小、甲辰小、松山小、久茂地小などは那覇の中心部にありました。

有名人の遺言

那覇市役所公会堂で有名人の遺言とも言うべき大演説会が二回行われました。いずれも大学教授です。
1.沖縄を泣いてしかる愛して死のう
2.沖縄に来てときとところを忘るれば
    神代に巡きことのはぞする。
別箋 那覇市史地図は小史を書く時の字典として購入したものです。でも、あまりにも輝しく専門的で那覇の雰囲気がでません。誤字、脱字、あて字の有無の調令を終わりました。このまま私が持っていては、宝のもちぐされになります。私はこれ以上読みたくありません。はだで感じたものが心おきなく書き安いものです。ですから、かねて尊敬する小嶺先生に贈呈いたします。                舟帆
 舟帆は私の尺八芸名です。公文書以外に使用します。

小嶺先生
 先生に贈呈した市史は完璧な史料解説書です。しかし、私にはこの解説書を基本として、一冊の思い出を書くことはできません。この本を見て、誤りでもある時訂正する、いわば辞典の役割をすることに利用しました。あとで、私が必要な時、お貸し下さい。いつもは、書柵にしまっておいて下さい。先生が家に持っていてこそ、価値ある物となる書物です。

一応書き終えた時、一つ落としてしまいました。

石敢当
いしがんとうと読みます。中国で魔よけとする風習が唐時代に始まったもの。誰に聞いても判らなかったことが解決して嬉しい限りです。石敢当は道の突き当たりに必ずといってよいほど設置されていました。いままで、どんな人に聞いても判らず困っていました。15.6才までの頃、石碑をなでて今日一日元気であるように祈りました。

屋根のシーサーグワから人玉が上るのを見たことがあります。これは、またいつか書きます。              舟帆